その一


「うわ! ……弥助、そりゃ人骨じゃねぇか。何でそんなもん拾ってんだ?」
「ん? ……えーと。ヘヘッ、何でもないよ」
 与一郎に声をかけられた弥助は、手に持っていた骨をまるで生きている動物をおろすように、丁寧に地面へ置いた。それを見ていた与一郎は怪訝な顔をしていた。
「……変な奴。ま、いいや。弥助、昼飯だぞ。戻ろう」
「うん!」
 二人は自分達の家がある村へ向かう。ここからは少し歩くが、子供らしく疲れを感じない元気な二人には、どうということはない距離だった。
 弥助達が居た場所には、合戦で死んだ兵士の屍がそこら中に転がっていた。二人が生きている時代は、全国的に戦乱の時代。下克上により身内、味方さえも敵になった。二人が住む村が含まれる領地の治安は、有能な領主が治めていることもあり、他の地よりは安定していた。しかし、それでも領地防衛のために何度か戦争は起こる。弥助達は村で生まれたため関係が薄いかもしれないが、もし武家の生まれだったとしたらあと二年もすれば元服し、一人の成人として戦争にかり出されることもあっただろう。弥助の父親も、もう十回に届こうかという回数出陣していた。

「あ、弥助! 飯が冷めるから早く来なさい!」
 二人が村の入り口にさしかかる頃、遠くの方から女性の声が聞こえてきた。
「うへぇ、弥助の母ちゃんもう俺らのこと見つけたのかよ」
「うん。母ちゃん目がいいよね」
「いや、あれは目がいいってレベルじゃないぞ。このあいだお前の家にいたずらしようとしたら、家の裏で見えないはずなのに怒られたぞ……」
「あ、あれって与一郎のことだったんだね。母ちゃんいきなり壁に向かって怒るからなんだと思ったよ」
「村一番の美人なのに村一番怖いんだよなお前の母ちゃん」
「そうかなぁ。そんなことないと思うけど?」
「お前だまされてるよ。……いや、あれは親ばかなのか」
「与一郎君も母ちゃんが待ってるよ、早く帰りなさい」
「は、はい! じゃあな、弥助。ご飯食べ終わったらまた遊ぼう」
「うん!」
 弥助は自分の母親、やゆの元へと駆け寄った。やゆは肩より少し長い髪を家事の邪魔にならないように後ろで結んでいる。細身の体でも立ち姿は堂々としていて、確かに美人と言われる理由はわかるが、弥助にとっては自分に見せるやゆの美人というより可愛い笑顔が大好きだった。
「弥助。また骨拾ってきたの?」
「今日は与一郎に見つかったし手に取ってただけだよ」
「そう。骨がある場所に行くのも拾ってきて埋めるのも母ちゃんは別に構わないけど、他からは変な人に見られるかもしれないから心配だな」
「うん、ごめんね。でも、なるべく見つからないようにやるから」
「そうまでしてやりたいなら何も言わないけど。危ないことはしないようにね?」
「わかった。おなかすいたからご飯にしよう、母ちゃん」
「あいよ! 今日は栗のご飯だよ!」
 二人が家の中に入ると、家の中では父親の才蔵が茶碗を持ちながら箸を囲炉裏に吊してある鍋へ近づけていた。
「あ・ん・たぁあ!」
「うわぁやゆ! まて! その手に持ってる栗はざるに置いた方が身のため、いや、実のためだ! もったいないぞ!」
「問答無用!」
「ゲフゥ!」
 数個の栗は才蔵の顔面へ鉄砲の弾のように飛び、ほとんど全弾顔に命中した。普通より少し大きな体をした才蔵だが、顔に栗が当たっただけで茶碗と箸を持った姿勢のまま叫びながら後ろに倒れた。
「あれほど食事はみんなでって言ったのに約束を破るからそうなるのよ」
 やゆはフフッと気持ちよさそうに微笑みながら地面と平行に転がった才蔵に話しかける。弥助はそのやりとりを見てニンマリするばかりだった。もちろんそれは母への愛想笑いではなく、単純に毎日同じように繰り返される父と母のやりとりが楽しいからだった。
 村の人から見ると、母はいつも元気なように見えているだろうが、弥助から言わせれば父が居ない時の母はどうしても寂しそうに見えてしまった。それはこのやりを毎日見てるからだろうか? と弥助は思ったりした。
 食事中、才蔵は少し前まで従軍していた戦の土産話を話した。数年前に一つの騒動が起こってから少し混乱していたが、最近では大名同士の小競り合いは少なくなり、だいぶ周りは落ち着いてきたという。やゆは戦の話を聞くのはそれほどうれしくないらしく、あまり表情も変えずうなずいているだけだったが、弥助は父の武勇伝を聞くと興奮したりしていた。
「じゃあこれからはずっと一緒にいられるの?」
「ああそうだ弥助。いっぱい遊ぼうな」
「才蔵さん。仕事もしましょうね~」
「ハハハ! もちろんだよやゆさん」
 才蔵はより大声で笑った。自分に向けられた笑顔という名と形の圧力を振り払うように。
 

 昼食の後、約束通り弥助は与一郎とまた遊んだ。自作の弓矢での的当ては与一郎の圧勝だったが、木登りの早さでは弥助の方が上だった。才蔵が居ない間、同じく父親が戦に出ていた子供達の中で一番仲がよかったのが与一郎だった。
「そろそろ日が暮れるな。帰ろうか」
「そうだね」
 二人はそのまま家路についたが弥助はすぐにまた家から出た。家族にも気づかれないように、こっそりと。しかし、頻繁に同じ事を繰り返す弥助に対して、両親が気づかないはずはなかった。
「また、出て行ったわね」
「そうだな……」
「わたし一回こっそりついて行った事があるんだけど……」
「そうなのか?」
「うん。でもあの子、骨を拾ってはしばらくずっと眺めて、置いてはまた拾っての繰り返しなのよ。持って帰ってくる骨も同じ形をしてる訳じゃないのよね」
「宝みたいなもんかもしれないな。俺も石とかは集めたことあるし。持ち帰ってきても家の中じゃなくて家のすぐ外側に埋めちまうからなぁ……あいつ犬なんかな?」
「なんで?」
「ほら犬ってかじる用の骨を隠すブヘッ! ……頭叩くなよ」
「あの子はそんなことしないわよ。それなら土にお墓に見立てたような棒をささないし、実際聞いても〝これはお墓だよ〟って言ったもの」
「お前、結構踏み込んだ事まで聞いてたんだな」
「そりゃあ母親だもの。当然よ」
「そうかい。まあ、あいつも生まれて十年たってるわけだから物事の善し悪しはわかるだろ。心配はしてないけどな」
「なんでそう言い切れるのよ?」
「そりゃあ母親の出来が最高に良いからな」
「お世辞言ったってなにも出ないわよ?」
「たまには褒めないとお前が割に合わないよ。……ほんとにありがとうな、やゆ」
「……フン」
 自分が戦に出ている間、家のことだけでなく村全体のことまで見ているやゆに対して、才蔵は感謝していた。こんな不安定な世だといつ死ぬかわからないし、体を動かすことしかできない自分には過ぎた嫁だといつも思っていた。だから、せめて自分の気持ちを言葉で伝えようと才蔵は決めていた。そしてやゆも、そんな才蔵だからこそ一緒にいようと決めた。確かに彼は体を動かす方が性に合っているような人だ。でも、彼は優しいし、こうして素直に気持ちを表してくれる。弥助の事もよく考えてくれている。やゆにはそれだけで十二分な夫だった。そんな両親に育てられた弥助は、幸せだった。


 弥助は午前中にも来た場所にいる。戦死した人の屍がある場所だ。実はこんな場所は他にいくつも見つけていた。二年前に初めて人骨を拾ってから、戦場の跡や落ち武者狩りにあって人が死んだ場所を弥助は探し回っていた。新しく見つけた場所に来るたび、自分でもよくわからない感情に支配されていた。
 広くはない森の中にそこだけ木が切り倒されたような小さな広場。午前中とは違い今はもう日が沈み込もうと準備をしていた。この場所は今日偶然与一郎に見つかってしまった。普通はわざわざ行く用事があるような場所でもないし、それでなくとも戦死した兵士の骨がある場所など近寄りたくはないはずだった。
「今日はここから」
 弥助はかがんで手頃な骨を拾う。そのあとはなにもせずただじっとしていた。しばらく立つと持っていた骨を捨て、また違う骨を拾う。大きさも、形も違う骨達。一見しただけではそれが同一人物の骨かどうかもわからない。弥助は同じ動作を繰り返していた。
 そのとき、遠くの方で音が聞こえた。
 グシャッ、パキッと骨が何かでつぶされる音だった。
 弥助が顔を上げると、自分がやってきた方向と反対側から何かがやってくる。獣だろうか? もし危ない獣だったら逃げなければならない。弥助はその何かを理解するために目をこらした。
 夕日が眩しくその何かは影になっていてよくわからなかった。しかし黒影を纏いこちらにやってくる何かは、近づくに連れ人間の形をしていることがわかった。
 自分より大きくはないから圧倒されることはなかった。ただ、振る舞いが『幽霊』の様で不気味で怖かった。その人間の形をした黒影はなおも骨を踏みつぶしながら弥助の方へ近づいてくる。
 弥助は、自分にその黒影が近づく前に距離を取るため、半ば反射的に自分から質問を投げかけた。
「だれ? ここでなにしてるの……?」
 大人から見れば弥助もその言葉の対象になるが、ここには二人以外、朽ちていこうとする屍があるだけだった。
 黒影は立ち止まると、弥助に向けてくぐもった声で答えた。
「お父さんを、探してるの」
 顔が視認できるほど近づいてきて、弥助はやっとそれが幼なじみの『みや』であることがわかった。


「お父さんがここにいるの?」
「わかんない」
 弥助は同い年であるみやの家族のことを思い出す。みやの父親は一年前戦に出たまま帰ってこなかった。その戦には弥助の父親も従軍していた。しかし、みやの父親だけ帰ってこなかった。亡骸さえ帰ってこなかった。
 みやの話では母親と共にしばらく落ち込んでいたが、母親がなんとか気持ちを持ち直し、普通の生活を取り戻す頃、母の目を盗んで時々父の亡骸を探しに出歩くことにしたのだという。
 母に心配をかけない様出歩く時間を少なくしていることもあったが、今まで弥助と会うことはなかった。
「お骨になっても、お父さんに会いたいの。……でも、どれがお父さんなのかわからないの」
 骨になってしまったら誰が誰だかわからない。ただ、父親が家の物を何か身につけていたかもしれない。それだけを希望としてみやは父親を捜し続けていた。
 弥助はみやと協力して父親の形見とも言うべき所有物を探した。だが、ここに父親が居るのかどうかもわからない。父親の物見がそもそもあるのかどうかもわからない。空虚な希望だけを頼りに二人はあたりを捜し続けたが、日が沈んでしまい探すのが難しくなってしまった。
「みつからないね」
「……うん」
「今日はもう暗いから帰ろう、みや。お母さんも心配するよ」
「うん。……やすちゃん」
「なに?」
「明日も一緒に、手伝ってくれる?」
「うん、いいよ。明日もがんばって探そうね」
「うん。ありがとう、やすちゃん」
 みやは少しだけ微笑んだ。出会ってから、いや、父親が死んでからずっと見ることが出来なかった微笑みを弥助はやっと見られた気がした。早くみやが本来の笑顔を取り戻してほしい。そう弥助は思いながらみやを家まで送り届けた。
 家までの岐路の途中、弥助はみやからなぜあの場所にいたかを質問された。
「そういえばやすちゃんはなんであんな所にいたの?」
「う。いや、たまたま散歩してたらあそこに着いただけだよ」
「なんで骨をもってたの?」
「め、めずらしいから」
「ふぅん」
 みやは多くを聞かずにいてくれた。村の人から変な目で見られないように隠そうとしていたが、みやに見つかってしまったことで、そのうち自分のやっていることがばれてしまうかもしれない、と弥助は思った。これからは今まで以上に気を使わなければいけないな、と気を取り直し帰路を歩いた。



 次の日、弥助はみやと一緒にあの戦場跡へ行くことにした。二人を与一郎がからかって来た。弥助は恥ずかしくなったが、
「与一郎は黙ってて」
 と、呼び捨てにされた上に今まで聞いたことのない声の低さで怒られたため、与一郎はぽかんとした表情のまま二人を見送っていた。

 戦場跡に着くと、二人は辺りを見回した。
 昨日と変わりない風景だった。雑草が生えるだけ広場の至る所に骨が転がっている。それを日光が淡く照らし、その存在感と生々しさを際立たせていた。午前中に来たことがないみやにとってこの光景は新鮮に映っていたかもしれないが、弥助にとっては、昨日となにも変わらない、そこだけ時間が止まっているような見慣れた風景だった。
「みや、話があるんだ」
「なに? やすちゃん」
「みやのお父さんの骨を見つけたよ」
「えっ?」
 驚きを隠せないみやをよそに、弥助は懐から、一本の骨を取り出した。子供の手のひらに乗るような小さい、しかし、しっかりと存在感のある骨だった。
「これが、お父さんの骨なの?」
「そうだよ。今まで見つけた場所にはなかったはずだから、あとはここか……ぜんぜん違うところ。ここで見つけられて良かった」
「……」
 なんで? いつ? ……みやはいろいろなことが聞きたかったが、声がでず、骨と弥助の顔を交互に見るだけだった。
「どうして?」
 しばらくしてやっとみやはその言葉を口にした。
「だれにも言わないでね?」
 弥助は一呼吸置くと、ゆっくりと告げた。
「僕、骨にさわると、その人の生まれてから死ぬまでが見えるんだ……」


◆◆◆◆


 二年前。弥助は両親と一緒に遊山中、偶然落ち武者狩りにあったと思われる集団の屍を発見してしまった。そして、何の気なしに落ちている骨を触ったところ、自分の頭の中に何かが流れ込んできた。他人から見て弥助は骨を見ているだけに見えるが、本人は違う景色を見ていた。そして、自分の視線の先には誰かに抱かれている赤ん坊が見えていた。夢のように、自分の体は動かせない。ただ目の前の赤ん坊が動くさまを『観る』だけ。
 赤ん坊は次の瞬間には倍ぐらいに大きくなり、その次には弥助よりも大きくなっていた。赤ん坊が成長すると同時に背景も変化し、取り囲む人々も変わっていく。やがて才蔵と同じぐらい年を重ねた男性になり、その男性はまた赤ん坊を抱いていた。
 ――そして。
 目の前に広がったのは見たこともないほど大勢の人間。そして法螺貝の音と、それに続く男達の叫び声。武器同士がぶつかり合う音や槍が肉を貫く音、耳に入る音はどれも初めてで聞くだけで体が割れるような衝撃だった。男のいた軍勢の兵士はやがて逃げ出し、全身に傷を負った男は数人の仲間と共に、馬に乗っているまた別の男の近くに寄ると、馬を囲みながら森の中へ走り出した。
 森の中で二度目の朝を迎えるころ、弥助と同じような格好をした大人達が鎌を振り上げ、疲れ切って動けない男を――――。
 そこで弥助は持っていた骨を放り出し、泣き叫んだ。両親はいきなりのことで、慌てて弥助をなだめるが、骨を見ていた『だけ』にしては異常な泣き叫び方に、戸惑うばかりだった。やゆは弥助が何か悪い物にとりつかれてしまったのかと血の気を引かせながら、ただ必死に弥助を抱きしめていた。才蔵もどうすることも出来ず立ち尽くし、やゆと同じ考えに至って早くここから離れるよう二人を促した。

 弥助はしばらく鬱いでいた。両親は僧に経を唱えてもらったりもしたが変化はなかった。唯一助けられたのは、弥助が飯を食う事だった。生きることをやめていないことがわかっただけで、両親は救われた気がした。
 両親、特にやゆは献身的に弥助に尽くした。弥助に微笑みかけ、明るく振る舞い、出来る限りの愛情を注いだ。そして季節が二つ過ぎたころ、ようやく弥助は元の表情を取り戻した。
 弥助は小さいながらも、母親から多大な恩を受けたことを身に感じていた。しかし、それと同時に、自分の中に一つの感情が生まれているのを感じていた。
 その感情を満たすために弥助が訪れた場所は、自分が初めて骨を触った『あの』場所だった。自分の中に膿のように居座り苦しませ、母親の介抱のおかげでようやく元に戻れたぐらい深い心の傷がある場所。
 その場所に戻ってきた理由、つまり弥助をここに連れてきた感情は『好奇心』だった。
 弥助は初めて自分が拾った骨を見つけた。あの頃よりは不思議と小さく見える。しかし手に持つとあの頃と同じ重さを感じ、それと同時にまた頭の中で赤ん坊が見えた。
「やっぱり……」
 間違いない、と弥助は確信した。次に少し離れたところにある骨を拾い上げてみた。また赤ん坊……だが、周りにいる人間や風景が違う。弥助はその骨の持ち主が生きていた頃を目で辿る。最期は先ほど見た骨とほとんど同じだった。
 同じようにしてその場所にある骨を調べ尽くした後、最初に拾った骨を持ち帰った。骨は家の脇に埋めた。
 次の日から弥助はまた新しく戦場跡や森の中を探し回った。両親は籠もっていた息子が頻繁に外に出ることを不審に思ったが、食事には帰ってくるし他は以前と変わらないままなので特に問い詰めるようなことはしなかった。それでも骨を持ち帰ってくることがわかると、やゆはさすがに理由を聞いてみたりした。
 弥助は新しく見つけた場所から骨を持ち帰ってきては自分で作った木箱に入れ、埋める。
 まるで、宝物のように。
 だが、木箱の中身を家で広げて眺めるようなことは絶対しないし、これからすることもないと思っている。遺骨として供養のために埋めたのは本当だ。それをしげしげと眺めることは罰当たりなことだとわかっていたし、すまいと思っていた。だがそれならば持ち帰る事自体が良くない。
 しかし、一度他人の全てを『知る』事を覚えてしまった弥助は、自分の行いを止めることが出来なかった。
 弥助が持ち帰ってきた骨には共通点があった。
 骨の持ち主は軒並み『軍勢を指揮するような武将以上だった者の骨』だった。
 自分とは全く住む世界が違う大人達の人生。それが弥助にはたまらなく魅力的だった。武将でなくとも、公家や姫だった者の骨も持ち帰っていた。
 骨は最初丈夫さを一番に考えていたが、途中からなるべく多く入るように小さな物になっていった。
 木箱に骨を入れながら弥助は思う。
 自分の特異で奇妙な力と行為について大人達が知ったらどう思うだろうか?
 哀れんでくれるだろうか。
 蔑まれるだろうか。
 怖れられるだろうか。
 この先の自分に不安を覚えながら、それ以上の欲望と、自分を満たす知という甘い蜜に抗うことが出来ないまま、まだ少年である弥助は骨を拾い続けた――。


◆◆◆◆


「みや。これはお守りにして持っておくといいよ」
 弥助は骨にひもを通した物をみやの首に掛けた。
「これもお父さんの骨?」
「うん、そう。のこりはあとで埋めてあげよう」
「お母さんの分も……」
「お母さんは多分信じてくれてないよ。それに、誰かに言うと僕のことも知られてこまるから、このことは誰にいわないでほしいな」
「……わかった。今日のことは誰にもいわないよ」
「ありがとう。みや」
「ううん。お父さんを見つけてくれてありがとう。やすちゃん」
 みやは弥助の言うことをすんなり受け入れた。ほっとした弥助の前で、みやの右手は首から掛けられた父親の骨を強く握っていた。

 二人はみやの父親の墓を作った。幸い土は最近降った雨の影響で軟らかくなっていたので穴を掘ることは比較的容易だった。石で掘った穴に、みやの父親の骨を入れた。弥助が骨を持つと、昨日一晩中探して見つけたみやの父親の一生が頭の中で映し出された。
 最期の瞬間、父はみやと妻の名前をうわごとのように呼び続けていた。もう少しで自分の村に帰れたはずなのに、目は村や家族ではなく空を見つめるだけだった。彼がどんな想いで最期を迎えたのか弥助にはわからない。だが、悔しいだろうな、とは感じていた。今まで、色々な人の最期を見てきたが、自分により近い人の死に弥助は自身を照らし合わせ少し怖くなった。
「やすちゃん?」 
「あ、これ、はい」
 二人は穴に骨を入れると、上から土をかぶせ始めた。
「……おとうさん。ありがとう、おとうさん…………ヒック……ヒッ」
 みやは土をかぶせながら泣き始めた。父親にやっと会えたのに、この土をかぶせると本当にお別れになってしまう気がして、それまで泣く様子が無かったみやがおとうさんと呼びながら泣いていた。弥助もみやを見て悲しくていられなくなり、つられて泣いていた。

「ほんとうにありがとう。やすちゃん」
「みやの役にたって良かったよ」
「わたし、これから毎日お参りするの。きれいな花を毎日ひとつ、あのお墓にお供えして、お祈りする」
「そうだね」
「やすちゃんも、一緒に来てくれる?」
「え?」
「……ダメ?」
「うん、いいよ」
「よかったぁ」
 村への帰り道、みやは弥助を見て笑った。
 人の役に立つなんて思ってなかった。だから、弥助にはみやの笑顔が本当にうれしかった。そして、死体の骨を触って人の一生を覗くなんて少しも褒められない自分の力が、誰かのために使える事に充実感を感じていた。
 弥助は横で笑うみやを見ながら、自分の行為に『人のためになる』という理由が一つ加わり、罪悪感が少しだけ薄まったのを感じていた。



 その一  完




 その二


「弥助! お客さんだ!」
「え? なに?」
 与一郎は弥助に走り寄りながら叫んでいた。吐く息は白く、吸う空気は久しぶりに顔を出した太陽に浄化されていつもより澄んでいる気がした。
「客だよ、客」
「きゃく?」
「お客さんだよ、もう少ししたら着くみたいだぞ!」
「そんなに騒ぐことなの?」
「だってお姫様だぜ! こんなことこれから生きてる間にあると思うか!?」
「うーん。ないかも」
「だろ!?」
 与一郎はずいぶん興奮していて頭から白い湯気が出そうだった。弥助にはいきなりお姫様が来るといわれてもいまいち実感がなかった。
「あとで見に行ってみようぜ?」
「うん、わかった」
「うはー、たのしみだぜ!」
 与一郎は小躍りしながら去っていった。あの調子ならばあるいは本当に湯気が出るのではないかと弥助は思った。
「やすちゃん」
「あ、みや」
「なんかあったの?」
「うん、なんか。お姫様が来るらしいよ」
「おひめさま?」
「そう。あとで与一郎と見に行くんだ」
「そうなんだ……」
「みやも一緒に見に行く?」
「いいの?」
「もちろん」
「うん! いく!」
「じゃあまたあとでね」
「うん!」
 みやと別れ、家に戻った弥助はやゆにお姫様のことを伝えた。やゆは〝あっ〟と驚いた顔をした後〝ごめん、知ってた〟と弥助に謝った。
「隠す必要はなかったんだけど、ヘタに騒ぎ立てる必要もないと思って」
「そうだな。やゆの言うことはもっともだ。あまり人が集まっても迷惑なだけだろう」
「父ちゃんは知ってたの? 見に行くの?」
「もちろん見に行くに決まってるだろ! お前はなにを言ってるんだ。俺が見に行かないなんて言うとでも思ったのか? だいたい今日来る『桜姫』様はとてもお綺麗だと評判だ。これで見に行かないなどと仏様が許しても俺は許せない。きっと今日という日を迎えるために俺は今まで生きてきたのかもしれない。幾多の戦場を駆け抜け、数ある武功を立て、ここに戻ってきたのはひとえに桜姫に会いたいがた……」
「うるさいこの変態農夫!」
「ギャアッ! アヂイィィイイ!」
 鍋の中に入って煮込まれていた川魚が才蔵の目の部分にぶつかった。才蔵は転げ回りあられもない声を上げていた。魚はよく煮込んでいたので身もほぐれ骨だけになっていたので食べるものが減るということはなかった。弥助は才蔵の姿を見て先ほど興奮して話しかけてきた与一郎のことを思い出した。
「桜姫……」
 弥助は桜姫の名前を呼ぶと少しだけ考えを巡らせたが、目の前の煮物の匂いに食欲の方が勝ってしまい早く食にありつこうとやゆの手伝いをすることにした。


 桜姫が来る頃になり、弥助達は集まって村長の家に行った。村長だというのに家は他と同じかそれ以上の襤褸屋で場所も普通に村人の家々の中にある。彼は自身が望んで清貧に甘んじているわけではなく、実際に他の村人と『同じ』なのである。齢四十程度で村長に選ばれた男の仕事は、領主の連絡を村全体に伝えるためだけの役であった。
「桜姫、よくぞお越しになられました。ご覧の通りなにもございませんが、少しでもお体の癒しになればと思います」
「こちらから願い出ておいて文句などございません。ありがたく使わせて頂きます」
 弥助達は少し離れたところから二人のやりとりを見ていた。あまり近づくと周りにいる護衛の兵に警戒されてしまうためである。しかし、桜姫を見るのはその距離でも十分であった。
 弥助の目にまず入ったのは、背の中程まで伸びた黒い髪だった。村人の誰も、村一番の美人であるやゆでも持ち得ないほどツヤがある髪だった。弥助は『毛ヅヤがいい』馬を見たことがあるが、まさにそんな馬を見た時のよう美麗さだった。そして佇まいは間違いなく一城の姫そのものだった。色とりどりに飾られた着物を羽織った体は凛としていて、淀みがない。長いまつげが上下に動き、薄い唇が微笑むと、横にいる才蔵は鼻息を強めたので弥助は少し煩わしくなった。
 桜姫はその存在全てが『清麗』だった。
「桜姫様、宿はこちらです」
 横にいる大きな男が桜姫を促した。甲冑に身を守られ、冷静にしている顔の中には剛健さが入り交じっており、まさに戦乱の世を生き抜いている武将という感じであった。横にいる才蔵も弥助から見れば充分強い『男』に見えているが、才蔵と同じぐらいの年に見える男にはそれ以上の確実な『強さ』を外面から感じ取れた。
「あっ」
「ん? どうした弥助?」
「い、や、なんでもないよ」
「弥助……さては、桜姫に惚れたんだろ!」
「え!? いや、そんな」
「やすちゃん? ほんとなの?」
「ち、違うよ」
「でも、ほんと桜姫ってきれいだよね。わたしみたいなぼろぼろで駄目駄目な子供なんて目じゃないくらいだよね」
「いーや、みやちゃんは将来可愛くなるよ。俺が保証する」
「さいおじさん」
「だから大きくなったらおじさんの所に嫁に来てくれや」
「え? あの、その……」
「父ちゃん、みやが困ってるからやめてよ」
「おーなんだなんだ、こっちにもお姫様を守る武将殿がいたか。これはこわい」
「桜姫様見ながらフンフンいってたこと母ちゃんに言うよ?」
「息子よ。そんな恐ろしいこと考えないでくれ、後生だから……」
 与一郎とみやに笑われながら頭を抱える才蔵を見ながら、弥助は先ほど自分が思い出したことを反復していた。

 ◇

 寝静まるにはまだ早い夜。家をこっそり出た弥助は手に一つの骨を持っていた。
 手のひらにのる骨。その中には一人の武将の一生が詰まっていた。その中に現れた、桜という名前の姫と、勘兵衛という大きな男。弥助は二人の容姿と桜姫という名前でこの骨のことを思い出し、遺骨を届けようと思った。
 もしかしたら、みやのように二人はこの武将のことを探しているのかもしれない。それなら、渡してあげた方が喜んでもらえるに違いない。そう思うと次の日まで待つことは出来ずに骨を取り出し、桜姫の所に向かっていた。
 桜姫の寝所の前には篝火が焚いてあり、入り口には昼間に見た勘兵衛という男が寒い中、身じろぎもせず立っていた。
「なんだ、子供。ここは桜姫様の寝所だ。妙なことをしたら子供でも、斬る」
「あの、折部政冬さんの骨を届けに……」
「なっ!? お前、何故その名前を」
「えーと、その…………」
「――――少し待っていろ」
 弥助が口ごもっているうちに勘兵衛はそう言い残すと寝所の中に入っていった。夜は寒く、弥助は震えながら待っていたが、しばらくたつと、「入れ」といわれ寝所の中へ入れられた。
 桜姫が寝所としている家は、他の民家と外も中もほぼ変わりない。来客用に使われるため綺麗にはなっているが、生活に必要な物はあまり無く、弥助の住んでいる家と比べると、どことなく殺風景だった。薪が燃える囲炉裏の横に、桜姫は座っていた。
「あなた、名前は」
「弥助……です」
「そう、弥助。私は桜と申します。こちらにいる男は益田勘兵衛といいます」
「はい」
「よければ見せてくれませんか? 折部政冬の骨を」
「はい」
 弥助は桜姫に手に持っていた折部政冬の骨を差し出した。桜姫のすぐ側には勘兵衛が控えている。仮に弥助が桜姫に何かしようとしても、勘兵衛がそれより早く手に持っている槍で弥助を突き殺すだろう。勘兵衛の両眼は弥助の全ての動きを射程に入れていた。もちろん弥助にはそんな気はなく、骨は無事桜姫の手に渡った。
「これが、政冬殿の骨……」
 桜姫は自分の手のひら台の骨を食い入るように見つめた。戦の後、遺体こそ見つからなかったものの行方不明になり、その生は絶望視されていた。誰もが疑いもなく彼の戦死を認め、桜姫も頭ではわかっているつもりだった。しかし、手のひらにある小さな骨の塊にはあまりにも命の実感が無く、桜姫にはどうしても骨に折部政冬を重ねることは出来なかった。
「弥助、これは本当に折部政冬殿の骨なのですね?」
「はい、そのはずです」
「正直に言いましょう。私はあなたを疑っています。もしあなたが私をだましているのなら、ここが最後の引き際です。これ以上は私が許しても勘兵衛があなたを殺すでしょう」
「……」
 勘兵衛はなにも言わずに二人を見ていた。弥助は、自分がもしかしたら今ここですぐに死ぬということを直接言われて、そんなはずはないのに焦った。自分が拾った骨は本当に二人の知っている人物なのだろうか? 自分で確認した事にさえ、自分で疑ってしまっていた。
 うろたえる弥助を見て、桜姫は少し安堵の表情を見せて弥助に語りかけた。
「――今のあなたを見て安心しました。ごめんなさい。そもそも私達をだましてあなたに得るものなんてなにもないでしょうね。あなたを疑うことはしません。……でも、実感がないのも本当なんです」
 衣ずれの音が家の中に響く。
「なぜあなたはそれを政冬殿の骨とわかったのですか?」
「それは……」
 弥助は口ごもったが、嘘はつけそうにない。桜姫は自分を疑わないと言ってくれたし、もし嘘だとわかってしまったら今度は本当に勘兵衛に殺されるかもしれない。不思議な力のことを言ってしまうのはためらわれたが、この状況では正直に言うしかなかった。
「骨に触ると、その人の一生が見えるんです」
「……にわかには信じられない話です」
 桜姫は勘兵衛を見た。そんな話を聞いたことがありますか? と聞くような目線だった。しかし、勘兵衛もそんな話は聞いたことがない。少しうつむき首を横に振った。
「一生というのは、生まれてから、死ぬまでのことですか?」
「はい、そうです」
 聞かなくともわかる質問だったが、そう聞かずにはいられないほど、桜姫は信じられずにいた。弥助も、素直に質問に答えるしかなかった。
 また、沈黙が流れた。子供の弥助には途方もなく長い時間に感じた。なんでここに自分が居るのかわからないぐらい緊張し、顔をうつむけた。
 やがて、桜姫は閉じていた口を開いた。 
「――ならば、聞かせてください。折部政冬がどう生き、どう死んだのか。あなたがそれを全て話せるのなら、あなたを信じることが出来ましょう」
 弥助は顔を上げると、桜姫の目を見た。桜姫はじっと弥助を見つめている。凛とした表情には先ほどの困惑や迷いはなかった。
「はい」
 弥助はうなずき、自分が見たものを思い出すように話し始めた。


 ◆◆◆◆


 折部政冬は一城の主だった。
 戦国の世の先を憂い、民を慈しみ、老将を敬い、若兵に礼と義を尽くし、妻を愛した。彼を褒め称えるための言葉は水のように流れ出るが、それら全て受け止めて溜まった言葉を総じて民は彼を『名君』と呼んだ。
 隠居した父の後を継ぎ主となった政冬は自分が所属する大名から縁談を持ちかけられた。その大名家は最近勢力を拡大していて、政冬への論功として大名の養女をもらい受けることになった。養女の名は、桜と言った。半ば強引な縁談だったが、二人の中は睦まじく、城中も城下の民も二人の前途を祝福していた。
 春の木漏れ日のようなつかの間の時期は、しばらくすると突如破られた。政冬が所属している大名家が他の大名家に攻められたのである。複雑な外交関係が引き金を引いた、戦国の世としては常である戦だった。
 敵勢が攻めてくる情報を得ると、政冬は城に籠もる事よりも打って出ることを選択した。城に籠もる方が得策であるのに、城下を荒らされたくない政冬はそれを出来なかった。しかし、結果としてその決断は政冬自身を不幸にしてしまった。
 政冬は出陣時、一人の武将に自分の妻を任せた。同じぐらいの年で兄弟のように育ってきた部下の名は、益田勘兵衛。死地へ赴く城主に付き従おうと勘兵衛は嘆願したが、政冬はかたくなにそれを断った。兄弟のように育ったからこそ、妻を任せられるし、生かしたかった。
 別れた二人の政冬に関する記憶はここで途切れる。


 戦は壮絶だった。だが衆寡は適せず囲まれ、作戦や士気の高さだけで盛り返すことが出来ないことは明白だった。だが、政冬の軍には『逃』の作戦はなかった。
 この状況で寡兵が勝つ唯一で最大の作戦は、敵総大将の撃破のみ。『進』のみの命令で猛る軍の全てはもはや死兵。一念のみで怖れず兵達が戦えるのは中心で鼓舞し続ける主がいるためだった。
「勝機は邁進するのみ! 皆の者、我に命を預けよ!」
「オオーッ!!」
 鬨の声をあげて突撃する折部軍の姿に敵将も恐れを感じたが、敵方とて戦乱を勝ち抜けてきた強兵。折部軍を横から突き崩した。政冬と折部軍は敵大将の横をすり抜けそのまま敵軍を突き抜けてしまった。
 突撃時に政冬は槍で腹を突かれ、甲冑の上からでもわかるぐらい血が溢れていた。
「このまま切り返しても犬死にするのみか……どうやらここまでのようだな」
 政冬は周りに残ったわずかな兵を連れ、そのまま森の中に消えた。敵将は後を追わなかった。追おうとしても所々に配置された伏兵に攻撃され、被害が拡大するばかりであり、捨て身の突撃をするような軍を追うことはさらに犠牲を増やすだけだとわかっていた。実際に戦死の数はこちらが遙かに多い。さらに、敵将には折部政冬がこの後どうするかもわかってしまっていた。それは、主に忠義を誓い、敵に捕らえられること、斬られることも辱めとし、自らで最期を迎えようという戦国武将の性のようなものだった。
「一時撤退じゃ!」
 敵将は指示を出し、半日続いた戦は終了した。


「追撃も出さぬとは……敵の武将はよほどの人物のようだな。彼を最期の相手に出来るとは我も恵まれたものだ」
 周りは杉の木に囲まれている。森のだいぶ深い場所まで入っていた。
 政冬は、自らの血肉が自然に帰るならまたよしと覚悟を決め、乗っていた馬から下馬した。
「皆……よく戦ってくれた。今までこの凡愚の元で働いてくれたこと、誇りに思う」
「政冬様……」
 名前を呼ぶ部下達も一人として無傷な者は居ない。立っているのがやっとの者も居た。そんな自分を省みることなく、彼らは腹からおびただしく血を流す自分の主人が覚悟を決めた事を知り、涙を流しながら政冬を見つめていた。
「この期に及んでは是非も無し。我はここで死にこの世の一部となろう。我と一緒に逝くことはない。最後の命令だ。ここから去る者は必ず生き延びて帰ってくれ」
「政冬様、なにを今更おっしゃるのです。こちらこそお願いいたします。どうか、冥土の供をさせてください。すでにこの世に未練もあらず、死んだ同胞とも会えるなら、一時の苦痛など何でもございませぬ」
「……有難う。すまぬが、誰か介錯を頼む」
 政冬は甲冑を脱ぎ、地面に正座した。部下総勢二十四名も正座し、政冬を見守っている。
「桜……勘兵衛、すまない。どうか幸せになってくれ」
 政冬は最後に一番の想いを口にして、脇差しを自分の腹へ突き押した。


 ◆◆◆◆


「……」
 桜姫は声を出すことなく、袖を口に当て泣いていた。勘兵衛も悔しさと悲しさを混ぜきった苦しい表情をしていた。
「そうか……政冬は、立派に最期を遂げられたか」
 それきり誰も喋ることもなく、しばらく静かに時が流れた。囲炉裏の火がぱちぱちと鳴る音が、張り詰めた空気と立ちこめる冷気を淡く包んでいた。
「弥助……政冬殿が死んだ場所。この骨を拾った場所は覚えていますか?」
「はい」
「では、そこに案内して頂けませんか?」
「はい、わかりました」
「今日はもう遅いゆえ、そこには明日参りましょう。急ぐ気持ちはわかりますが、夜道は危のうございます」
「――わかりました」
「弥助。長い間ご苦労だったな。家まで送ろう」
「はい」
 外に出ると寒さが一気に二人の身を引き締めた。
「弥助。そなたは……」
「?」
「……いや、なんでもない。明日はよろしく頼む」
「はい」
 勘兵衛は横から弥助の頭を見下ろしていた。自分より遙かに小さなこの少年が、他にも政冬のような人の死を知っているのだろうか? 戦国の世、戦で死ぬ人間は一兵士だろうが武将だろうがたくさん居る。だとしたら、この少年の持つ力はどんなに悲しいことだろう、とも思った。

 ◇

 日が昇り、弥助と桜姫、勘兵衛は折部政冬が眠る場所へと赴いた。なぜ弥助があの二人と一緒にいるのか、やゆや才蔵、みやも心配になったが、勘兵衛から「息子さんをお借りします」と礼儀正しく頭を下げられたので、誰もなにも言うことは出来なかった。
 杉の木は、冬の寒い中でも変わらぬ姿で立ち続けている。静かに年輪を重ねる木々が墓石のように佇んでいた。
「ここです……」
 立ち止まった弥助の足下には、たくさんの骨が転がっていた。腐食が進んでいるが、しっかりと残っている部分もある。
「ここが……」
「折部政冬さんの骨は、これです」
 弥助が指さした人骨の側には、抜き身の脇差しが落ちていた。勘兵衛はそれを拾い上げ、色々と確認すると、苦悶の表情でそれが折部政冬の物で間違いないことを二人に伝えた。
「政冬様……本当に、死んでしまわれたのですね……」
 桜姫は着物が汚れることもいとわず、ひざまずくと骨を拾い上げた。変わり果てた姿と腐臭には、政冬の生前の面影は皆無だった。それでも実感と事実を受け止めようと、ひたすら骨を目に焼き付けていた。
「桜姫様、少し周りを見回ってきます」
 そう言うと、勘兵衛は今居る場所から離れて行ってしまった。桜姫に配慮したことであるが、弥助にはなぜ離れたのか意味はわからなかった。
 地面に座り、じっと骨を見る桜姫を見つめながら、弥助は考えていた。
 夫に先立たれるのは、愛する人が死ぬというのはどんな気持ちなのだろうか? まだそんな人が居ない自分には到底わからない。でも、もし父親の才蔵が死んだら、母親のやゆは自分なんかよりよほど悲しむのではないかと思う。両親の自分に対する愛情はよく知っているが、才蔵とやゆのやりとりを毎日見ている弥助はそう感じていた。
「好きになる前に結婚してしまったけど、本当に良かった」
 桜姫はそう語り出した。弥助への言葉だと思うが、弥助にはまるで折部政冬に語りかけているように聞こえた。
「願うことなら、太平の世で会いたかった」
 一つ一つの言葉は重く、それにしては辺りに響いていた。
「あの世は平和でしょうか? 楽しいでしょうか? 私は、私は出会えたのにとても悲しい……」
 それきり桜姫はまた黙ってしまった。弥助は、今まで骨を拾い集めた場所に来るたびにしていた合掌をあらためて折部政冬に向かってした。


「骨を……どうにかしてもらわないといけませんね。野ざらしでは可哀想です」
 桜姫がそうつぶやき、弥助は合掌していた手を下におろした。
「勘兵衛の所に行き、他の兵士を呼んできてもらえませんか? その間、私はここで眠る皆にお別れをします」
「わかりました」
 弥助は勘兵衛の所へ向かった。どこにいるのかよくわからなかったが、試しに勘兵衛が最初に向かった方向へ行ってみると、程なく勘兵衛は見つかった。
「どうした? お前も居づらくなったか」
 勘兵衛は見回りに行くと言ったが、実際そこでずっとたちつくしていた。顔はどこか遠くを見つめていた。
「桜姫様が骨をなんとかしたいから他の兵士を呼んできてほしいって」
「桜姫は本当にそう言ったのか?」
「はい」
「――――」
 勘兵衛は少し考えると、まっすぐ前を向いた。
「では、桜姫の元へ急いで戻らなくては」
「えっ? でも……」
 弥助が言い終わる前に、勘兵衛は駆けだしていた。弥助には勘兵衛の行動の意味がわからなかったが、心なしか勘兵衛が少し焦っているように見えた。


「桜姫様っ!!! 死んではなりませぬっ!!!」
 勘兵衛は走りながらその体に見合う声で叫んだ。
 勘兵衛が居る場所から桜姫が居る場所まではそう遠くない。だが、もし自害するとしたならこの距離はそれを行うのに十分な距離だった。
「桜姫様っ! どうか思いとどまってくだされっ!」
 自分の体はまだそこに辿り着けない。ならば声だけでも辿り着き、止めようとあらん限りの声で叫んだ。その声は後ろから歩きながら戻ろうとする弥助にも充分聞こえている声だった。
 勘兵衛が走り戻った時、
 桜姫は、折部政冬が所持し、自害に使った刀を見つめていた。
「桜姫様っ!」
 勘兵衛が桜姫に駆け寄ると、桜姫は勘兵衛の方を向いた。勘兵衛の見る限り、桜姫の体に傷は見受けられなかった。
「こんなに早く来るとは思いませんでした。心の準備をする時間もありませんでした」
「桜姫様……」
「さすが、我が夫が認めた武将です」
「……某は姫様を守るように仰せつかりました。たとえそれが御身自身による手からでも守りましょう」
「私があなたに折部政冬を生かすように命令をしていれば、政冬殿はきっと死なずに済んだのでしょうね」
「そうかもしれません。しかし、政冬殿はもう戻ってきません。もう守ることも出来ません」
「わかっています。でも……彼はもうここには居ません。あるのは骨のみ。ならば、こちらから会いに行くよりありません」
「……はぁ、はぁ」
 勘兵衛の声を聞き、弥助は途中から走り戻ってきた。その声と今桜姫が持っている脇差しを見て、弥助は二人にまだ言っていない政冬の言葉を思い出した。
「死んでは……だめです」
 二人は弥助の方を見る。
「政冬さんが……〝生きろ〟と言っていたから」
 折部政冬は死の間際、二人に謝るほかに〝生きて欲しい〟とつぶやいた。自分の死と引き替えに叶えて欲しい、一生に一度の願いだった。
「……亡くなった人から、生きろと言われてしまいましたね」
「死んだら、誰かがきっと悲しむから……僕も、生きてほしい、です」
 弥助は、みやのことを思い出していた。死んだのはみやの父親なのに、自分のことのように悲しかった。
「どうか、政冬様のためにも……某のためにも、生きてくだされ」
 今は亡き、兄弟同然で育った主人の遺言を守るために、勘兵衛も譲ることは出来なかった。
「…………どうやら、私は簡単に死ねぬようです」
「では」
「村に戻りましょう。そして、彼らの墓を作りましょう」
「ははっ!」
 勘兵衛はうれしそうに返事をした。弥助もそれを見て笑ったが、心の中には重い気持ちが残っていた。

 ◇

 村に戻り、兵達に墓を作ってもらい、骨はその墓の中に眠った。折部政冬の骨だけは壺に入れ、本国の先祖の墓へ入れることになった。
「お世話になりました。いつまでもこの村が健在であることを願います」
「はい。有難うございました」
 覇気のない村長と挨拶を交わした桜姫は勘兵衛と共に、見送る村人達の中にいる弥助の元へときた。
「弥助。色々有難う。私は、次の主の元へ嫁ぎます。……いつか、私が彼の死から乗り越えられるようになるまで、彼の亡骸と思い出に守ってもらうつもりです」
 そう言って颯爽と自分の乗る輿へと向かった。その姿は村にやってきた時以上の凛としたものだった。
 勘兵衛もそんな桜姫を見ながら弥助に礼を言う。
「弥助。ありがとう。達者で暮らしてくれ」
 礼を言われ。弥助もニンマリとした。
「たまに、たまにだが……某が政冬になれれば良かったと、そう思う」
 そう言い残して勘兵衛は去っていった。弥助はその言葉の意味をどうとらえたらいいのかわからなかった。


 ――弥助は、みやの時のように、骨を渡せば桜姫が喜んでくれると簡単に思っていた。だが実際は違っていた。勘兵衛が気づかなければ桜姫は死んでいた。自分が、自分の力で人を殺しそうになった。
 なにも知らなければ桜姫の心には穴が開いたままだった。でも、その心の穴を埋めることは、彼女には辛すぎた。
 ――桜姫は、『もし』を信じていたかった。
 もしかしたら、どこかで生きているのかもしれない。
 もしかしたら、いつか自分を迎えにきてくれるのかもしれない。
 もしかしたら、またあの楽しい日々を、三人で笑う日々を過ごせるのかもしれない。
 そんな希望や願いの入った穴を、桜姫は覗いていた。
 その穴が、彼女にとっては未来へ伸びる道中の目印だった。
 しかし穴は、いきなり、唐突に、躊躇なく目の前で埋められてしまった。
 目印が、無くなってしまう。
 目印が無くなってしまい、本来見渡せる道の先を見失ってしまって、
 桜姫は、落とした希望や願いと一緒に、自分も穴に埋めようとした――。


『知る』事は必ずしも良いことではない。
 では、自分は一体何なのだろう?
 人の一生を観て、知ってきた自分は。
 二人を見送る弥助の頬を、今年初めての雪が静かに撫でた。



 その二  完




 その三


「与一郎帰って」
「いきなりなに!?」
 弥助がみやの父親の骨を拾ってから、与一郎と三人で遊ぶことが多くなっていた。今日はみやと弥助が遊んでいたところに、用事を終えた与一郎が後からやってきた。
「登場人物にあなた居ないから」
「え? ……なにをしていたの?」
「夫婦ごっこ」
「今更おままごと? 子供だなー」
「与一郎に言われたくない。それに、そんなに幼稚なものじゃない」
「じゃあなんだよ?」
「農民のわたしたちの息子が織田家に仕官して、草履取りをしたり城を一夜で築いたりして有名になって、今は仕えていた大名が死んだから急いで仇討ちをしようっていうところ」
「……なんか妙に細かいな!? でも凄すぎて実感がないねそれ」
「たしかにそうかも。じゃあある大名に仕えて戦で大功を立てて『剣岳七本槍』の一人として有名になるっていうのは?」
「……剣なのか槍なのかよくわからないな……」
「与一郎はやっぱり馬鹿だから無理」
「なんだとっ!?」
「与一郎。そんなに怒らないでよ」
「だってよ!」
「みやも、与一郎も混ぜて一緒に遊ぼう?」
「う、うん。やすちゃんがそう言うなら」
「弥助のいうことはすぐ聞くんだな。なんだよおまえら夫婦かよ」
「えっ!?」
「そ、そんなこと!」
「……夫婦ごっこしてるからからかっただけなのに、なにそんな焦ってるの?」
「えっ」
「あっ」
「ま、いいや。弥助、ありがたいけど今日は一緒に遊べない。今日は父ちゃんと城下まで行くんだ」
「城下ってことは」
「そう。木綿糸を売りに行くんだ」
「そっか。木綿糸って凄いよね、母ちゃんに作ってもらったこの手袋もすごくあったかいし。ね、みや?」
「……うん」
「与一郎が余った木綿糸をくれたおかげで本当に助かったよ。ね、みや?」
「…………うん」
「ありがとう。与一郎には感謝してもしきれないよ。ね、みや?」
「………………うん。ありがとう、与一郎」
「まあ、そのぐらいどうってことないよ。それに、手袋があったかいのは弥助の母ちゃんの腕もいいからさ。ほんとに器用だよな、お前の母ちゃん」
「うーん。そうかもね、ヘヘッ」
「うし。それじゃいってくるわ!」
「いってらっしゃい」
「……たまに鋭いのよね」
「え? みや、なにか言った?」
「んーん! 続きやろう、やすちゃん! えーと、今回働いた分がこれだけだから冬までは……」
 手袋をはめた手をひらひらさせながら答えると、みやは慌てたように手元にある石を並べ始めた。これは食料の代わりで、冬を乗り切るためのやりくりをしていた。あらためて見ると確かに与一郎に言うとおり、ごっこにしては少し細かいというか妙に現実感がある話だなと弥助は思った。


「城下に行くぞ、弥助!」
「えっ?」
「またそんないきなり……」
 自分の名前を呼ぶ声が聞こえたため家に戻り戸を開けると、開口一番に才蔵が叫んだ。側には籠いっぱいの草鞋が入っている。
「草鞋を売りに行くの? 父ちゃん」
「そうだ。今回もすべて売ってやるぞ!」
「父ちゃんの草鞋丈夫で長持ちで履きやすくて最高だって村のみんなも言ってるよ」
「だろ! いつか父ちゃんの草鞋が天下を統一する!」
「オオーッ」
「…………アホ」
「最高の草鞋を作り出す金の両手を持つ夫に阿呆とはこれ如何にっ!?」
「確かに腕は金だけど頭は草鞋虫以下なのよっ!」
「草鞋虫だとっ!? なんだそれは!? 説明しろ弥助」
「この前母ちゃんが外に置いといた草鞋を履いたら、ちっちゃい虫がいっぱい出てきて足にまとわりついたんだよ。草鞋の中にいたから、草鞋虫」
「草鞋の形した虫の事じゃないんだな」
「それも居るけど、今回はこれ」
「さすがのわたしでもあれはだめだったわ……」
「お前だいぶ慣れたけど虫とかあんまり得意じゃなかったな」
「奴等いきなり出てくるからびっくりするのよ」
「俺はいつでもこの家に居るからびっくりはしないな。安心しろ」
「いや、早く出ていって草鞋売ってきて」
「わかりました」
「父ちゃん、ほんとに行っていいの?」
「お前もだいぶ大きくなったし、農民以外の暮らしも見ておいた方が良いかと思ってな」
「やったぁ!」
「ということでやゆ、俺とこいつ二人分の握り飯を作ってくれ」
「いやだね」
「母ちゃんおっきいの作ってね!」
「喜んで!」
「露骨すぎる……」
 弥助は言葉以上に内心喜んでいた。実は、弥助には城下ではなく、『城』そのものに用事があった。


◆◆◆◆


「……すごい」
 弥助は少し前に見つけた新しい『場所』で驚嘆していた。
 今までに見たどの骨の中身より破天荒で、激しく、悲しく、そして煌びやかだった。最初に骨を拾った時と同じぐらい骨を持つ手が震えて、体が熱くなった。全てを見終わった後もしばらくその場で動くことが出来ないほどの衝撃だった。
 その骨は、弥助が持ち帰ってきた骨の中でも一番になっていた。骨以外は持ち帰ることをしなかった弥助は、形見らしい少し異形な腕輪も一緒に持って帰った。
 それからは、寝ても覚めてもその骨のことが気になって何度も何度も思い返していた。思い出せば思い出すほど自分の記憶にすり込まれた。多分、今後自分の人生の中でこれ以上の骨を見つけることはないだろう。そうまで感じていた。

 その後、
 毎日取り出しては自分の奥深くにしまうあの骨の記憶を、さらに奥深くまで刻み込ませた言葉を、弥助はある武将からもらった。
 その武将は、今は亡き兄弟同然で育った城主からの最後の命を守り、自分の心を押し殺したまま城主の妻を傍らで守り続ける武将だった。
 雪が降り始める季節、益田勘兵衛という武将と、城主が眠る場所へ向かう途中に、父が話す戦国の話が大好きだと言う弥助に戯れついでに言い放った。


「羽柴秀吉が、織田信長の骨を探し続けているらしい。見つけた者には末代までの栄華が約束される」


『織田信長』。最近見つけた一番の宝物の持ち主と同じ名前だった――。


 ――弥助は、自分の力が誰かのためになればいいと思っていた。いや、誰かのためになることを探していた。それは死者に対する罪滅ぼしかもしれない。いずれにしろ、なにかせずには居られなかった。
 もしためになれる『誰か』を選べるのなら――――弥助の答えは簡単だった。自分を育ててくれた両親。育ててくれた恩に報いるなどという大人の考えは弥助にはまだわからない。ただ、なにかお礼がしたかった。ありがとうと言う以上のなにかをあげたかった。
 あの骨を持って行けば、多分苦労など知らない生活をもらえる。そうすれば、きっと凄く、凄く喜んでくれる。
 織田信長でいっぱいになっていた弥助の頭は、両親の笑顔に取って代わっていた。


◆◆◆◆


 弥助は、遠出をするのは初めてだった。
 冬になり、木々は鮮やかな色をその身の内に潜めていたとしても、動物や虫が冬眠し、なにもいなかったとしても、弥助にとっては少しずつ変わる風景が気分を高ぶらせていた。
「なにもないね、父ちゃん!」
「ああ、なにもないな」
「誰もいないね! 父ちゃん!」
「さっきすれ違ったろ。……お前、先は長いんだからはしゃぎすぎるなよ」
「かしこまりました!」
「そんな言葉どこで覚えた?」
「父ちゃんが寝言で言ってたよ。あと、〝申し訳ございませんでした! やゆ様!〟って」
「……そうか、夢の中にも休まる時はなかったのか」
「疲れてるの?」
「疲れてるというか憑かれてるなこれはもはや。……いや、忘れてくれ」
「?」
 日は高くなり、光は二人を抱擁しながら体を暖める。体にまとわりついた冷気を少しずつ引きはがしていくと、いつしかおとなしくなっていた弥助の肌も赤みを増してきていた。
「ねぇ。父ちゃん」
「なんだ?」
「知らなくても良いことって、あるんだよね?」
「どうしたいきなり」
「どうなの?」
「――ああ、あるさ。お前もだいぶでかくなったが、それでもまだ子供だ。知るには早すぎることもたくさんある」
「……そっか」
「いろんな事を体験しながら、少しずつ大人になれば良いんだ」
「じゃあ……じゃあさ、その人になにかを教えるのを迷った時は、その、どうすればいい?」
「また難しい質問を……。――そうだな。なにかを教えるって事は、それが大事であればあるほど、言った方にも責任が掛かるんだよな」
「……」
「まあ、お前はまだそんなこと考えなくて良いよ。責任は親達が取る。だから……」
 才蔵は立ち止まると体ごと顔を弥助に向けた。
「だから、教える時に、その人のことを考えるんだ。それでも言うべきだと思ったら、教えればいい」
「……うん」
「なーに、お前が教えたいと思った事なら多分その人は知るべきなんだよ。まったく、子供のくせに細かいことまで考えやがって」
「ごめん」
「いいんだよ。お前は元々俺に似て人に優しい。人のことを考えるなんてもともとお前は出来てるんだから、問題ないさ」
「俺『達』だよね。父ちゃん」
「そうだ、お前はあの母ちゃんの子なんだから」
 才蔵は笑って歩き出した。弥助は、いつもより少しだけ大きく見える父の背中を追い、歩き始めた。


「さあ、着いたな」
「わ……」
 人が多い。
 弥助の感想はそれに尽きた。
 今まで、自分と同じ服を着た、自分でも数えられるぐらいの人しか見てこなかった。目の前では、人それぞれがそれぞれの色の服を身に纏って歩いていた。弥助は、その人と色の数に少しめまいを覚えた。
「ん? 大丈夫か?」
「……あ、うん。大丈夫」
「驚いたか?」
「うん、すごい……」
「そうかそうか、じゃあ俺はあっちの方で草鞋を売るから、お前はこの城下町を見回ってこい! 日が沈む前には無くなるだろうから、そのくらいには戻ってこいよ」
「え? 父ちゃんの手伝いをするんじゃないの?」
「む、それはうれしいが……今日は特別だ! 行ってこい!」
「ありがとう! 父ちゃん!」
「おう!」
 才蔵は弥助を残して町の奥の方へ向かっていった。
 弥助は辺りを見回す。立ち並ぶ家も、どれも自分が住む壊れそうな古屋とはわけが違う。丈夫で、格好いい家。窓からこちらを見ている人も、家に見合うような余裕のある、質素な自分達とは違う人間に見えた。
「あ……」
『見られている』ということで弥助は気づいた。気づけば周りを通り過ぎる人達が自分のことを見ていた。弥助は、自分の着ている服がボロボロだからだと思った。実際には、弥助以外にも農民は居たので服に対する物珍しさはなく、単に子供が一人で立ち尽くしているのを訝しがって見ている人が多かったが、そんなことは弥助が知るよしもなく、今ある恥ずかしさから外に出るために、自分から一番近くにある建物に入った。

「刀……」
 目の前には、自分の背ほどもある一振りの刀があった。戦場跡に赴く弥助にとって、刀を見るのは初めてではなかったのですぐそれと判別は出来た。
 だが、この刀には、今まで見てきた泥と血にまみれた刀達とは違った雰囲気があった。弥助にはうまく表現が出来なかったが、強いて言えば『静か』だった。そこにあるだけで、この冬の空気のような、張り詰めたものが凝縮しているようだった。
「あ、いらっしゃいませー」
 と、奥の方から明るい女性の声が聞こえてきた。目の前まで来た女性は、自分より幾分か背が高く、年齢も三、四つ上の気がした。にこやかというより元気の良い笑顔は、声と相まって太陽のように感じた。
「お、おおおおお?」
 女性は弥助まで近より、さらに顔を弥助に近づけてきた。首で切りそろえられた髪が揺れ、弥助の目の前には大きな目と前髪にある茶色の簪があった。
「ふんふん」
 女性はフンフン言いながら弥助の顔を見ている。眉をひそめたり目を何度も瞬かせながら見ていたり色々な表情をしていた。端から見たらその表情は滑稽だったが弥助はだんだん恥ずかしくなっていた。
「あの……」
「君、名前は?」
「弥助、です……」
「やすけ? これで良いのかな?」
 女性は手に弥助の文字を書き、弥助はそれにうなずいた。
「弥助ちゃん! 合格よ! 合格!」
「え?」
「この顔なら今から鍛造すれば将来有望だわっ!」
「あの……」
「君はいい男になるために生まれてきたのよ! 私のために、いや、世のためにいい男になるのよ!」
「その……」
「いや、むしろそのままで居てちょうだい! 良い原料のまま数年後ここに戻ってきて! その時はあたしが鍛造するわ!」
「…………」
 勢いのまま意味不明なことを雪崩のように容赦なくぶつけられ弥助は頭が真っ白になっていた。
「っと。それで、あたしはつばきって言うんだけど弥助ちゃんはここになにしに来たの?」


「ふーん。お父さんとねぇ」
 弥助はつばきにここまで来た経緯を話していた。人の目が気になる弥助の誤解もそこで解けた。
「よし! 他ならぬ美男の頼みならば、あれを貸してあげましょう!」
 ぽん、と座っていた自分のももを叩きつばきは奥の部屋に行くと、腕に大きめの布を掛けて戻ってきた。
「じゃーん。これは私があなたぐらいの頃に来ていた着物よ! 呉服屋の娘だったお母さんのお下がりだから多少古いけど、確かな代物よ!」
 弥助の目の前に広げられた藍色の着物は、女性が羽織るには見た目が多少男っぽいが、その分少年である弥助には違和感ない物だった。藍の布の所々に黒い蝶が舞っていた。
「いいの?」
「もちろん貸すだけだから返しに来てね。絶対よ! まあ君ならその心配はなさそうね、どう見ても素直そうだし」
「わかった。ありがとう、つばき姉ちゃん!」
「ふおおお! 今のを今一度呼んでくださりませんか?」
「つばきお姉ちゃん?」
「こ……これは、名刀。いや、妖刀の類だわ。いや、むしろ幼刀……」
「?」
「いやあ何でも無いのよ気にしないでおくれやす」
「そういえば、あの大きい刀は誰が作ったの?」
 弥助は先ほど見たひときわ異彩を放つ刀を指さした。
「あ、あれは私のおじいちゃんが作った刀よ。おじいちゃんはもう死んじゃったからあれは遺作なんだけど、凄いでしょ。うちは代々刀鍛冶なのよ」
「へぇ。じゃあお父さんが作った刀もあるんだ」
「う、うん。まあね……横に並んでるのがそうよ」
「ふーん。でもやっぱりあの刀が一番凄いね」
「……そうね。やっぱりわかっちゃうよね」
「え?」
「なんでもないわ。さ、町も見て回るならあんまり時間ないわよ。遠くから来たんでしょ?」
「うん。本当にありがとう」
「お礼は成長してからちょうだいな。んじゃ、行ってらっしゃい!」
「行ってきまーす!」
 弥助が元気よく出て行くと、つばきは祖父が作った刀を見てつぶやいた。
「さすが、素直なだけに物を見る目も純粋なんだなぁ。――あ、アレを着物から取り出すの忘れてた。ま、いいか」

 ◆

「よーし休憩だ休憩!」
 与一郎は父と木綿糸を売りに来ていた。売ると言っても仕立屋にまとめて売るので、特に与一郎がやることはない。父が仕立屋の主人と世間話をする間、休憩がてら城下町を見物するのが決めごとだった。
「今日はここに入ってみよう。おじゃましまーす……おおすげぇ。刀だ!」
「いらっしゃいませー! ん? 今日は農民の子が多いわね。当たり日なのかしら?」
「おお姉ちゃん。ここは鍛冶屋?」
「……でもこっちはダメダメだわ。ハズレね」
「なにが外れ? 売り物にくじでもついてんの?」
「違うわよ。まあある意味その戸がくじかもしれないわね」
「姉ちゃんの顔は客にとっては大外しかもな。大赤字だよ」
「……あんたむかつくわね。帰って」
「また言われた。今日は当たり日なのか?」
「あんたにやるような服はないわ! 精々木綿糸でも栽培して布でも織ってもらいなさい!」
「また当たり。ちょうど木綿糸を売り終わって休憩してるところ」
「気持ち悪いわね! ぶぶ漬け食って帰れ!」
「居させたいのか帰らせたいのかわからねぇ!」
「そうかあんた田舎者だものね! 先人の配慮と感性と怒りが生んだすばらしい帰宅命令もわからないわよね! ……ここ都じゃないけど」
「俺は客だ! 帰らない! この刀かっこいいな!」
「ありがとう、それはおじいちゃんの遺作よ! うちの家系は代々刀鍛冶なの! ついでに打った刀自体も売ってるのよ」
「じゃあこっちの横のは親父のだな! 売れてないだろ」
「大当たりよ! あんたさっきの子より断然鋭いわね!」
「つばき、どうしたの?」
 つばきの後ろから落ち着いた女性の声が聞こえた。
 声の主はつばきの母、あやめ。
 つばきをそのまま大きくしたような風貌と、子と全く似ていない柔らかな声質を持つ母親だった。
「あ、お母さん。ごめん、なんでもないから」
「お客様?」
「チガウチガウ。ただの小五月蠅い蟻よ。全くどこから入ってきたのかしら」
「玄関からしかねぇだろ」
「つばき、そろそろご飯にしましょう」
「うん、わかった」


「……で、だ」
 刀が置いてある場所から引き戸一枚隔てた場所。そこに置いてあるちゃぶ台の周りには、一人の大人の女性と、二人の子供が座っていた。
「なぜお前がここにいるのか」
「いや、ぶぶ漬けという物をいただきに」
「あれは帰れって意味だってば!」
「ふふ。目の前でおなかを鳴らされたら、さすがに放っておくわけにもいかないわね」
「つばきのお母様ありがとうございます。助かります」
「おい今さらっと呼び捨てたなあたしを……あれ? お父さんは?」
「お父さん、また始まっちゃったみたい」
「もう、しょうがないなぁ。ちょっと呼んでくる!」
 つばきは部屋から出ると向かい側の戸を開けた。
 土の匂いと、鉄の臭い。目に入るのは、竈と、神棚と、つばきにはよくわからない工具や設備だった。考えてみればつばきは父、鹿之助の仕事ぶりを見ることはなかった。神を祭るような神聖な場所には自分のような者は場違いな気がしたし、なぜか少し怖くもあった。だから、いつも見るのは、入り口から見えるこの風景だけ。大掃除でさえも足をあまり踏み入れることはなかった。
 その工房の真ん中で、鹿之助はうずくまっていた。
「できない。できない。なんでできないんだろう」
「お父さん。ごはんだよ」
「やはり俺には無理なのか。父さんのようには出来ないのか。どうしたらいいんだ」
「お父さんっ!」
「……つばきか」
「ごはんだよ」
「後で行くから、先に食べててくれ」
「根詰めると体壊すよ」
「いいから、先に食べてなさい」
「早く行こうよ」
「いいから!」
「ッ……もう! なによ!」
 つばきは刀鍛冶についてよく知らない。だから、父がなにを悩んでいるのかがわからない。知らないのに仕事について適当に口は出せないから、行き場のない感情を意味のない言葉でぶつけるしかなかった。
「……ごめん。……父さんの秘伝があれば、秘伝がわかれば、父さんのような刀が作れる。父さんの技がわかれば……」
 つばきが勢いよく閉めた引き戸に、鹿之助はぶつぶつとつぶやいていた。


「お父さんてば悩んでる時はだいたいおじいちゃんのことばかりよね!」
 食卓に戻るやつばきは当たり散らすように独り言を吐いていた。我慢が出来なかったらしく、与一郎だけはすでに箸を進めていた。
「悩んでないのを見た時がないわね」
「なに? けんかしてるの?」
「あんたには関係ないわ」
「話してよ。どうせすぐ帰るんだからひ……これも縁だと思って」
「あんた今暇つぶしって言おうとしたわね!」
「つばき、お客さんに失礼なことしちゃダメよ」
「お母さんはなんでコイツにやさしいの!?」
「自分の母ちゃんに当たるなよ」
「元はと言えばお前のせいだ! ぶぶ漬け食ったか!? よし帰れ!」
「まだ食ってないしそもそも無い」
「お母さん! お湯を沸かして、早く! 一刻を争うわ!」
「与一郎君。いつもこんな感じだから大丈夫よ」
「無視しないでお母さん。あなたの子供はこっちよ」
「それに仕事をしてない時のお父さんとつばきはとっても仲が良いのよ」
「へー」
「…………仕事をしてる時のお父さんは嫌い。〝できない〟とか〝父さんの秘伝があれば〟とかぶつぶつ言ってばっかり。話もよく聞こえてないみたいだし」
「秘伝?」
「刀鍛冶の秘伝の紙みたいなのがあるらしいのよ。それさえあればおじいちゃんのような刀を作ることが出来るって何度も言ってるの」
「秘伝は探したの?」
「もちろんよ。その時はお父さんが家の中をめちゃくちゃにして大変だったわ。でも見つからなかったの」
「ふーん。……なあ、そのおじいさんの墓は近くにある?」
「あるけど――なにもないわよ?」
「ちょっと連れてってよ、どうせ暇だし。暇だろ?」
「今度はしっかり暇って言ったわね。それに私は店番があるから暇じゃないわ!」
「いいわよ、つばき。私がやるから行ってらっしゃいな」
「もう、お母さん」
「有難うございますつばきのお母様。ご飯もおいしいです」
「だから呼び捨てをやめろっての! わかった。掃除でもしに行ってくるわ」
「お供え用の団子持って行こうぜ!」
「お前実はそれが目的だろ!」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        
「そういえば、じいちゃんは死んだって聞いたけど、ばあちゃんは?」
「……おばあちゃんは、知らない」
「知らない?」
「与一郎君。おばあちゃんはね、おじいちゃんとお別れしたの。だから今どこにいるかわからないの」
「そっか。……ごめんな」
「別に謝らなくて良いわよ。顔もなにも残ってないから実感ないし。家捜しした時に出なかったし、調べるすべもないしね」
「そっか、ごちそうさま。そっちも飯食ったら墓に行こうぜ。準備できたら言ってくれ。俺それまで刀見てるからさ」
「食うの早いわね……そんなに経ってないのに」
「食える時に素早く食う。うちの家訓だ」


 町から少しだけ離れた人気のない場所。寺が近くにあるわけでもなく、普通の原っぱだった。吹きさらしの大地に、いくつかの墓石が乱立している。風が吹いても、動くのはかろうじて生えている背の低い雑草のみ。その動き以外には、生を感じられる物は何一つ無かった。
「戦場に出るとどこで死ぬかわからないから、こうして小さくてもお墓が建てられるのは幸せなことなのかもね。あんたのお父さんは?」
「生きてるよ。あれは後ろの方でビクビクしてるから死ぬことはないな」
「ひどい言いようね。まあでも、それなら良いわね」
「父ちゃんが死んじゃった奴もいるけどな」
「そう……」
 風は無いが、自分達が動くことで寒さは遠慮無く肌に突き刺さる。空も少し雲がかかっており、雪は降らずとも昏さを増していた。
「これよ、おじいちゃんのお墓」
 つばきが立ち止まった所には、石が立てられていた。大きさは与一郎より少し小さいし、お世辞にも豪華な作りではなかった。
「これは?」
 与一郎は墓石の横にある人のような形をした石を指さした。
「これは……私にはわかんない。でも、おじいちゃんが作らせた物らしいよ」
「へー」
「地蔵ってわけでもなさそうだけど、なんなのかしら?」
「……」
 与一郎は墓石の近くまで寄ると、しげしげと見つめ、ぺたぺたと触り始めた。
「あんまり罰当たりなことしないでよね」
「こっちのは死んでないから良いだろ……ん、これは?」
「あ、それ? それは作った人の印みたいな物かしら。おじいちゃんが作った刀には全部付いてるわよ」
「そうだな。あの刀にも付いてた……あ」
「どうしたのよ?」
「ちょ、ちょっとここで待ってて」
「お墓の周りの雑草抜いてるから良いけど……なによ?」
「いいからさ」
「もう、なんなのよ……」
 つばきに背を向けて走っていく与一郎の口元は、少しにやけているようだった。


「え!? あんた、それおじいちゃんの刀じゃない!?」
「大丈夫だよ、お母様にはちゃんと許しをもらったから」
 つばきはいやな予感がしていた。向こうから、少しだけ湾曲している黒い棒を持っている少年がにやけながらこちらに駆けてくる。出来れば見ていたくもなかったし信じることも出来ないしいろんな事についていらついていたが、大事な物なので眼を血走らせながら見ていた。
「お母さんは甘すぎる!」
「いや、俺お母さんじゃないし」
「知ってるわよ!」
「いい物が見られるぜ、多分」
 与一郎はそう言いながら人の形をした石の方へ近づいた。
「ほら、ここに印のでっぱりがあるだろ?」
 与一郎が指をさした先には、十字型の出っ張りがある。その出っ張りの中心には十字より少しだけ高い円柱の出っ張りがあった。
「そんで、この刀の手に持つ部分……なんだっけ」
「柄(つか)よ」
「そうそう、それのこの先端部分。同じ形してるよな」
「そうね、窪んでるわね」
「そう、それをこうして、こうする!」
 与一郎は石の出っ張りに窪みをはめ込み、少し回すとそのまま刀を勢いよく引き抜いた。すると、中からなにかズッポリと出てきた。
「ああっ!? 壊した! 壊したわね!」
「うお、びっくりした。結構勢いよく抜けるもんだな」
「かか形見の刀が!?」
「だだ、大丈夫だって、壊れてないって! よく見ろよ」
「あ、あれ、紙?」
 引き抜かれた柄の先端部分には、細く折られた紙が入っていた。紙を広げると、文字が書いてあったので、つばきはそれを読み上げた。
「えーと……」


『想う。喜を想う、怒を想う、哀を想う、楽を想う。想いを想う。この一振りが切り出す明日を想う』


「うーん。どういうことかしら」
「お前馬鹿だな」
「なんだとっ!? じゃあお前にはわかるのか!」
「俺は子供だからわからん」
「いきなり子供特権利用しやがって……。いいわよ、お母さんに見てもらうわよ」
「父ちゃんじゃなくて?」
「お父さんは今けんかしてるから、お母さん」
「さいですか」
「行くわよ、あ、あんた最後におじいちゃんに手を合わせて。それから帰るわ」
「なんで俺が」
「なんであれ形見に失礼なことしたんだから謝るついでに冥福祈れ!」
「わかったよ」
 与一郎は墓石の前で手を合わせた。すぐ終わると思っていたが、以外に長く手を合わせていたのでつばきは少し驚いていた。
「ずいぶん長かったわね」
「なんとなく。それに、やるならちゃんとやらないと。当たり前のことだろ」
「なんかさっきと言ってることが矛盾してるけど、まあいいわ。帰りましょうか」
 二人は墓がある場所から刀と紙を持ち背を向けた。つばきは、歩き出す前に墓石の方を振り向いた。
「おじいちゃん。これが秘伝なの? おじいちゃんは」
 なにが伝えたかったの?
 そうつぶやきかけるつばきに、墓石はなにも語ることはなく直立していた。


 二人が家に戻ると、あやめは裁縫をしていた。
 静かに、淡々と手を動かす様は明るさを振りまくつばきと似ても似つかない。長い指は手入れをしていれば見とれるほど綺麗になるはずなのに、所々あかぎれていた。
「お母さん、おじいちゃんの秘伝を見つけたの!」
「本当? それは凄いわね」
 あやめは手を止め、ただいまも言わないつばきににこりと微笑みかけた。切れ長の目をさらに細めても、整った顔立ちは崩れない。綺麗だな。与一郎はあやめを見てただそう思った。咲き誇る花を見てもなにも思ったことがない与一郎でさえ、綺麗という言葉を実感するような笑みだった。
「これなんだけど、あたしには意味がわからなくて……お母さん見てくれる?」
「いいわよ」
 つばきはあやめに刀から出てきた紙を渡した。
 あやめは紙を手に取ると、文字を目で追っていった。子供二人は、その様をじっと見つめている。
「………………」
 ――時間が流れる。外では相変わらず雑踏の音がしている。冬でも町の活気は失われることもなく、全体が熱を持っている。
 とうに読み終わっているはずなのに、あやめは紙に書かれた文字から視線を外さない。つばきと与一郎も、その異質な雰囲気に口を出すことが出来ないでいた。
「つばき」
 あやめは娘の名前を呼んだ。それでも目は文字からそらしていない。
「なに? お母さん」
 名前を呼ばれただけなのに、つばきはその声色と雰囲気で普段母があまり見せない真剣さを感じ取り、神妙に聞き返した。
「お父さん、好き?」
「うん、好きだよ」
「じゃあ、刀を打つお父さんは好き?」
「……あんまり、好きじゃない」
 少しだけためらい、しかしはっきりとつばきは答えた。仕事をしている時の父親は、繊細で、真剣で、怖かった。普段の優しい父を知っているだけに、どうしても好きにはなれなかった。
「そう」
 あやめは立ち上がり、部屋を出て行こうとしていた。つばきと与一郎も慌ててその跡を追おうとする。
「お母さんはね。好きよ」
 そう言うあやめの表情には、なにかを覚悟したような意志が感じられていた。


 工房では鹿之助が座り込んでいた。手には何も握っておらず、膝の上に乗っていた。
「どうしたらいいんだ」
 もう何度目になるかわからないほどあやめも、つばきも見知ってきた光景、言葉。悩みと言うより諦めに近い空気が鹿之助の周りを囲っていた。
「あなた」
「……あやめか」
 つばきは一瞬むっとした。自分の時は大声を出すまで気づかなかったのに、今回はすんなり返事をしたのが少し許せなかった。
「見つかったわ」
「何がだい?」
「お義父様の秘伝」
 あやめは手に持っていた紙を前に突き出すようにして鹿之助の前に出した。
「っ!? ……本当に?」
「……本当」
「やった……これで、これで父さんと同じ刀が作れる。やった、やった――」
「……」
 焦点の定まってない視線であやめを見つめながら鹿之助は喜びの言葉を口にしていた。あやめは鹿之助を無表情で見つめ続ける。
「……ごめんなさい」
「え……?」
 瞬間、あやめは手に持っていた紙を激しく破り始めた。
「なっ!? えっ!?」
「お母さん!?」
「あ!?」
 そこにいるあやめ以外、一人残らず声を出した。渡すはずの紙を、数少ない遺品を、破り捨てるなど誰も想像していなかった。
「あやめっ!?」
 鹿之助は悲鳴にも似た声で妻の名前を呼んだ。しかしあやめは手を止めない。まるで敵のように、許せない物のように、ひたすら激しく、細かく破り続けた。
 細かくなった紙は灰でもこぼしたように地面に広がった。子供二人はもちろん、鹿之助も名前を呼んだきり声を出すことが出来なかった。怖い物でも見るかのように、息を潜めていた。
「あなたはこんな物に頼る必要はありません」
 紙を破り抜くとあやめは鹿之助に静かに言った。鹿之助は地面に落ちた紙を呆然と見つめていた。
「技術はお義父様から全てあなたに継がれています。……それは、あなたとお義父様のやりとりを毎日見ていればわかります」
 言葉は鹿之助には耳に入っていたが頭には届いていなかった。
「あそこまでして出来ないのなら、そんななまくら刀は作るのをやめなさい。時間と鉄の無駄です」
『なまくら刀』という単語に鹿之助はびくっと体を動かし、あやめの方を見た。
「なま……くら?」
「そうです。なまくらです。あのような刀では赤子一人斬り果せません」
「そんな、そんなことはない! あれは父さんの刀だ! 俺が作ったけど、あれは父さんの技術で作った、父さんの刀だ!」
「いいえ、あれはあなたの刀です。あなたが作った、あなたの刀です」
「違う……違う」
 何も頭には入ってない。掛けられた言葉を否定するように鹿之助は頭を抱えた。その様は、その場の誰が見ても弱々しく映った。
「お父さん……」
「――あなた。これを、覚えていますか?」
 あやめは、服の物入れから手のひらぐらいの布に包まれた何かを出した。その布を丁寧にほどくと、中から和鋏が出てきた。
「……」
「これは、あなたが作ってくれた鋏です」
 布の中の鋏は、全体的に黒ずんでいたが、歯の部分は綺麗に光っていた。こまめに手入れをしていたことが見て取れた。
 和鋏は、鹿之助があやめに贈った物だった。
 別の場所から商売のためにしばらくこの城下に滞在することになったあやめは、ふらりと入った刀鍛冶屋で鹿之助と出会った。人当たりの良い鹿之助にあやめもすぐ心を開き、毎日のように二人は会い、やがて恋仲になっていった。やがてあやめが元居たところに帰ろうとした際、鹿之助はあやめにこの和鋏を贈ったのである。それが元で、二人は夫婦になった。
 ごく短時間な、ともすれば戯れ程度の、すぐ忘れかねない二人の関係を『絆』という強固な糸で結びつけ、引き寄せたのは、この裁断用の鋏だった。
「あなたのくれたこの鋏には、あなたの心が詰まっていた。だから私は、ここに来る決心を決め、その覚悟も揺らぐことがなかったのです。この鋏は、あなたそのもの。私は鋏に触れて、心を感じて、鹿之助を好きになった」
 鹿之助は、手で抱え込みながらぐらぐらと動かしていた頭を静止し、子供のように素直に話を聞いていた。
「あなたを選んで良かった。ここに来て良かった。あなたが刀を打つ姿が見たくて、あなたの作る刀を見たかった。……でも、あなたはいつまでもお義父様の背中ばかりを追いかけてばかりでした」
「……父さんのようになって、あんな凄い刀を打たないと」
「あなたはお義父様ではありません。あなたの刀は、あなたにしか打てません。それを、わかってください。それが出来なければ、今以上の刀は打てません。ここを引き払って、私の実家に来て呉服屋を継いでください」
「お母さん」
「刀が無くとも、私達は充分幸せですから。刀に、お義父様に縛られる必要はありません。新しい土地で、刀を忘れて、三人でまた過ごしましょう」
「……」
 先ほどあやめは、〝刀を打つ鹿之助が好き〟と言った。それならば、今のこの言葉はどのような意味を持つのだろうか。夫の好きな姿が一つなくなったとしても、苦しむ姿を見たくない。その悲痛な想いの中で絞り出すように心から出した言葉だった。
「俺の父ちゃんは……」
 少し無言が続いた後、いきなり会話の中に与一郎が入ってきた。
「俺の父ちゃんは木綿糸を作ってるけど、いつも言ってる。〝この糸は布になるから、糸の事なんて誰も見ないし気にしない。でも、この糸で作られた服を喜んで着る人を想像しながら、俺は糸を紡ぐ。そうすると、良い糸が出来るんだ〟って」
「……」
 鹿之助は、与一郎の言葉を反芻した。少なくとも今までは、自分の刀を持つ人のことなど考えた事もなかった。ただ、父から教えてもらった技を、一つ残らず、一工程も間違えず再現すること。それが全てだと思っていた。真似をすることで、亡くなった父親が今でも居る気がする。それが、虎兵衛との繋がりを無くさない方法だった。鹿之助は、大好きな父をひたすら追いかけていた。
 人を斬り、殺す。そんな道具の行く末など今まで意識しなかった。

「なあ、ちょっと」
「え? なに?」
 与一郎はつばきに声を掛けると、工房からでて小声で話し始めた。
「あのさ」
「なによ」
「おれ、そろそろ父ちゃんの所に戻らねえと」
「え!? ちょっと」
「ごめん」
「あんた言うだけ言って行っちゃうの!? ここまで来たら責任もって最後まで見届けなさいよ」
「しーっ、静かに。だからごめんっていってんじゃん」
「だからって」
「俺の父ちゃんが待ってるんだ」
「……」
 つばきは納得がいかないまでも、与一郎の言葉に従うしかなかった。
 父親を待たせて、迷惑を掛けていいわけがない。
「いきなり家に来て、引っかき回すだけ引っかき回して、なんなのよ、もう」
「でもよかっただろ。俺が来て」
「ふん、別にあんたが来なくたってきっとそのうちお父さんは立ち直って、お母さんも笑って、また仲睦まじく過ごせたから」
「そうですかい」
「そうよ、あたしの親なんだから間違いないわ」
「ふーん」
「ま、あんたもよくやったとは思うけどね」
「もっと素直に褒めればいいのに」
「なんかあんた見てるとむかつくのよ。わたしと顔の同じ場所に黒子があるし他人の気がしないのがまた感情を逆撫でさせるのよ」
「それはつまり自分がむかつくって事だな」
「その言葉がさらにむかつくわ。もういい帰って」
「『ぶぶ漬けを食べろ』じゃなかったか」
「今度来た時いくらでも食べさせてあげるわ!」
「そうかいわかった。んじゃな」
「まったく……もう」
 失礼しました。などと今までの言動に似合わない言葉をにやにやして言いながら、与一郎は店から出て行った。開け放たれた窓からは、冷たい風と、少しだけ顔を出した太陽の光が差し込んできた。
「ま、いくらか楽しかったわ。また来なさいよ」
 引き戸から見渡せる、相変わらず騒々しい外の人混みにつばきは笑って語りかけた。

 ◆

 服を貸してもらい、弥助は上機嫌だった。
 古い物ではあるが、自分が来ていた物よりは見た目も、肌触りも断然良い。このような服を着て町を歩いてると、自分ものこの町の一員になれたようでうれしかった。
 町は、活気づいている。
 様々に飛び交う言葉、色々な形をした家が色々な物を売っている。目の前に物が溢れるぐらいある光景は、弥助にとっては宝が入っている木箱の中のように感じた。
「あれ?」
 手が冷たくなってきたため服にある物入れの中に手を入れると、何かが入っていた。取り出すと、小さな巾着が入っていた。巾着の中には、なにか小さくて固い物が入っているようだったので、弥助はそれに取り出そうとした。
「うわっ!」
 弥助はいきなり声を上げた。周りは弥助の方を見ている。しかしその見られている恥ずかしさ以上に、弥助は驚いていた。
「歯だ…………」
 しかも、この歯の持ち主は死んでいる。そう弥助は容易に断定した。
 歯に触った瞬間、弥助には人の一生が見えていた。
 この歯は誰の物だろうか? なぜ子供の頃のつばきの服からこのような物が出てくるのだろうか?
 ――それは、この歯の中身を見ればわかる。
 知ってしまった以上、弥助は好奇心に抗うことは出来なかった。家と家の間に入り、見つかりにくいところに隠れ、今度はしっかり気持ちの準備をした。そうして、巾着の中に入っていた歯を握りしめ、自分はそっと目を閉じた。

 ◆◆◆◆

 鹿之助の父、虎兵衛は不器用だった。
 何をしてもうまくできなかった。箸もうまく持てなかった。
 刀鍛冶になった理由は簡単だった。格好良いから。
 そしてなぜか、鍛冶の仕事だけはそこそこ出来た。
 別にうまかったわけではない。ただ、『人並みに』覚えることが出来た。
 不器用だからこそ刀鍛冶として成功したと人は言うだろう。
 でも虎兵衛には、刀しかなかった。刀以外無かった。刀を作れなければ、他の仕事は出来なかった。だから、実直に、必死に、懸命に、自分の全てを賭けてそれにしがみついてきた。命をかける物の前には、家族さえ優先されなかった。
 その在り方が、いつしか虎兵衛を有名な刀鍛冶に仕立て上げた。
 両親は虎兵衛の在り方に憂いを覚えていたが、才能を持つ子供が居ることは誇らしかった。
 しばらくして、刀以外を顧みないそんな虎兵衛に、奇跡といえることが起こった。
 両親の紹介だったが、妻が出来たのだ。
 世間への体裁を気にする両親が見繕った、適当な婚姻だった。
 妻の名は、とと。さして特徴のない、数件離れた場所にある雑貨屋の娘だった。
 刀が全ての生活に、自分の命一色の世界に、異物が入り込む。それは虎兵衛には容認できなかった。好き合わない二人の中には、最初家庭と言われる物は存在してなかった。冷たく、近い存在なのに誰よりも離れていた。しかし、両親の面子も、義理もある。少しでも長く夫婦であろうと虎兵衛は努力した。
 努力した結果。二人はいつしか本当の夫婦になっていた。
 夫婦のまねごとを続けるうちに、良き夫を演じるうちに、刀のように鋭利な虎兵衛の感情もいつしか溶け、自分の奥の奥に埋もれ続けていた欲や、異性に恋する気持ちが芽を出した。
 本物の夫婦になった二人に、しばらくして子供が出来たことは必然だった。
 子供が大きくなり、三人での生活が続く。物を言わぬ鉄ではなく、温もりある人間らしい、そんな夢のような幸せな生活が虎兵衛を待っていた。

 だが、そうはならなかった。

 ととは居なくなった。

『夜逃げでもしたんじゃ無かろうか?』近所ではそんな噂が流れていた。
 本当のところはわからない。ただ、朝起きたらととは居なくなっていて、ととの実家の雑貨屋もなくなっていた。それが事実だった。
 だが虎兵衛にはその事実で充分だった。ととがいない。残ったのは息子だけ。それが現実だった。
 それから虎兵衛は元に戻る。『不器用な虎兵衛』に。
 幸せがこぼれ落ちた。自分の命の中に入った異物は、いつしか命の一部になっていた。それが無くなった衝撃は虎兵衛には耐え難く、慣れ親しんだ姿に戻ることで、不器用な刀鍛冶という殻の中に入ることで自分を守った。
 結婚生活で多少鈍っていた刀鍛冶の腕も元に戻った。元の、人を斬ることに特化した、すばらしい切れ味を誇る冷徹で完璧な刀に戻った。
 昔と同じ刀だけを見ていればいい生活。だが一つ違ったのは、
「父ちゃん。ぼくも刀作りたい!」
 自分の子供が近くにいることだった。
 命の一部から異物に戻った息子を、虎兵衛は排除することはしなかった。いや、出来なかった。
 虎兵衛と同じぐらい不器用で、才能がありそうでもない息子。鹿之助は、出来ないなりに、ひたすらに努力をしていた。それに、虎兵衛にはない『優しさ』を持っていた。
 鹿之助にとっては、刀は二番目であり、虎兵衛が一番だった。父と居たいから刀鍛冶をやりたいと申し出たことは虎兵衛にはわかっていた。
 それでも、虎兵衛は自分の持っている技術は教えられるだけ教えた。
 両親も亡くなり、二人で過ごす日々。笑みがあるのは鹿之助だけだった。それでも、なぜか一日は満ちていた。虎兵衛はそれがなぜかわからなかった。
 人当たりの良い鹿之助は妻を迎えるのも労はなかった。自分は両親のおかげでやっと近所の娘を妻に出来たのに、息子はたまたま町に来ていた呉服屋の娘が妻だという。虎兵衛は事あるごとに鹿之助が本当に自分の子だったのかと疑問に思う。
 やがて子供が生まれ、四人での生活が始まった。
 いつの日かあった幸せな生活。それを今度は息子である鹿之助が行っていた。
 そんな幸せは、虎兵衛には場違いに感じた。
 ひたすら、鉄を叩いた。
 鳴る音は自分の内で響き、自分が殻の中にいることを何度も知らせてくれていた。しかし、息子夫婦は虎兵衛を殻から出すように、幸せの方へ手を引っ張るように自分に関わりを持ち続けていた。
 いつしか、虎兵衛もそれを受け入れるようになっていた。
 ある日、孫娘のつばきが人相の悪い男達に言い寄られていた。
 つばきはまだ小さい子供であるから、男達も本気ではなかった。精々怖がらせる程度だったろう。しかし、虎兵衛がその中に割って入ったことで状況は変わった。問答無用に叱責する虎兵衛に、男達も興奮し、虎兵衛を殴り、去っていった。
 仰向けに転がる虎兵衛の目には、慌て、泣いているつばきの姿が映った。
 ――これが自分の残した幸せの形か?
 泣きじゃくるつばきの頭を撫でながら虎兵衛はそんなことを思った。
 殴られたことにより歯が折れてしまった虎兵衛は、買ってきた小さい巾着にそれを入れ、つばきに手渡した。
「これはお守りだ。じいちゃんが、ずっと守ってやる」
 身内とは言え人の歯などあまりうれしくないはずの物をもらったつばきは、しかし満面の笑顔でそれに答えた。


 先が長くないことを悟った虎兵衛は息子の先を考え、色々と考えた事を手紙にしたが、それは破り捨てた。気恥ずかしかったし、あまりぐちゃぐちゃと言うのは鹿之助にも良くないと思った。
 そのかわり最後の遺作となるであろう刀の柄に細工を施してもらい、その中に入れる短い手紙をしたためた。
 この世に残す最初で最後の文。
 それは自分が一生掛かって見つけた言葉。それは刀を持つ者と、自分、そして家族に向けた言葉だった。
 多分、誰もこの手紙を気づかないだろう。それならそれで良いと虎兵衛は思っていた。自分のことなど刀以外は忘れてくれていい、息子達はそれぞれ自由に生きてくれればいいと。
 不器用な刀鍛冶は、想いの言葉を口に出さないまま永遠の眠りにつく。
 〝俺、幸せだったかな〟
 最後に、自分にしかわからない言葉をつぶやいて――。

 ◆◆◆◆

 弥助は目を開けると、歯を巾着に入れ、大事そうに服の物入れの中に入れた。
 両親を幸せにしたい。
 弥助はその気持ちがさらに強くなった。
 懐に入っている信長の骨を渡せればその願いが叶う。それは間違いない。それなら、早くそうしよう。そして、父に、母にめいっぱい褒めてもらおう。
 弥助は脇道から出ると、初めて目にするはずの多くの物に目もくれず一直線に奥にある城へと歩を進めた。


 城下町の奥。人気もまばらになる場所に、それはあった。
 弥助には、最初それが山に見えた。
 こんなに高い建物は見たことがなかったし、他の家々とは形も色も全くの別物だった。その荘厳さと同時に、自分のように小さな人間など簡単に飲み込まれてしまうような威圧感を感じた。
 もっと近くで見たい。あの建物の雰囲気を肌で感じたい。そんな誰もが思うであろう欲求を叶えることは、弥助のようなしがない村に住む農民の子供には出来なかった。
『城』の遠巻きには弥助にとっては高すぎる塀が連なっており、目の前にある大きな門は固く閉ざされていた。
 本当に人が作った物なのだろうか? 山のように存在感があり、嵐のようにどうにも出来ないほどの畏怖を感じる。自然の中にあるそれらと目の前にある建物は、子供の弥助にとっては同じように感じられた。
 弥助は懐にある腕輪をぎゅっと握った。そしてここに来た目的を思い出す。ここで行かなければ今度いつ城下町へ来られるかわからない。それに、才蔵はまた戦にかり出されるかも知れない。もし、万が一、才蔵がみやの父親の様になったら……今まで見てきた骨達のようになったら。そう考えるとここで戻ることは出来なくなった。弥助は多くの死を見てきた事によって、他の子供より遙かに肉親の死について敏感になっていた。


「おい」
 門番の一人、六郎は隣にいる同じ門番の茂吉に呼びかけた。茂吉は人通りも少なくただ立っているだけの仕事にうんざりしていた。隣にいる六郎も普段ほとんど喋らない。退屈すぎて立ったまま寝そうになっていたが、久しぶりに六郎から喋りかけられ、少し驚きながら返事をした。
「な、なんだよ?」
「子供がこちらに向かってくるんだが」
「あぁ? ただの町民だろ?」
「そうなんだが……なんかおかしくないか?」
「なにがだ?」
 二人の前方から、藍色の着物を着た子供がこちらに歩いてくる。誰も連れずに一人で、周りに目もくれず、ただ、こちら側を一点に見つめながら。
 まだ距離はあるが六郎は確実に子供の視線を感じていた。真剣にこちらを見ている。と言うより、睨んでいるようにも見える。足どりを含めて、なにか普通とは違う、不気味で、物々しい感覚を覚えた。お調子者の茂吉でさえ、その雰囲気を感じ取り、真剣なまなざしでその子供のことを見ていた。

 やがて弥助は門番二人の前まで来た。二人には外見から弥助が少年であることを認識した。二人は、先ほどの感覚から、手に持っていた槍を弥助の顔に向けた。
「なんだ、お前」
「え!? あの、その……」
 弥助は驚くと、先ほどの足どりと目線からは想像も付かないほど急におどおどし始めた。目も白黒させている。二人は弥助がこちらに歩いてきた時との仕草の差に呆気にとられた。
「あの、あの……」
 なおも弥助はたじろいでいた。いきなり武器を目の前に突きつけられて何も思わない子供など普通は居ない。弥助を見て六郎はまだ少し警戒していたが、茂吉は弥助の子供らしい反応にすっかり毒気を抜かれてしまった。
「おい、お前。どうした? 迷子か? それとも、ここに仕官しにでも来たのか?」
 茂吉は自分の横に構え直すとからかうように笑いながら質問した。六郎も茂吉に促され、同じように槍を弥助から元の位置に構え直した。茂吉は普段ではまず起こらない今の状況を楽しんでいた。
「あの、骨を……」
「骨?」
「お、織田信長の骨を、持ってきました」
 弥助は少し震えながらあらん限りの勇気を振り絞って声に出した。骨を持って来たは良いがこの先どうなるかよくわからない不安と、いきなり槍を向けられた兵士に対する緊張で体が動かなかった。一方六郎と茂吉も弥助の言葉にすぐに応えず、じっと弥助のことを見ていた。
 やがて、
「少し待っていろ」
 茂吉はそう弥助に告げると六郎に目配せし、弥助と反対側、つまり門の方へさらに移動し弥助に聞こえないように小声で話し始めた。
「おい、織田信長の骨っていったよな」
「ああ」
「どういうことだ?」
「俺は最近この地方へ来たばかりだからよくわからない。茂吉の方が詳しいんじゃないのか?」
「お前だいぶ遠くから来たもんな。こっちのことなんてわかるはずもないか。……俺みたいな下の下っ端には何も流れてこねぇよ。前なら確かそんな噂があったが……だいぶ日もたったからな」
「そうか」
「どうするかな。中に入れちまうか?」
「いや、子供とは言っても素性の知れない者を入れるわけにはいかない」
「だよなぁ。お前ならそう言うよなぁ」
「中に入り知っている者に聞いてみるのはどうだ?」
「――いや、いい。〝またくだらないことで持ち場を離れやがってっ!〟て言われる」
「日頃の行いのツケが出たな。俺が行けば問題ない」
「いや、いい! ここは俺が何とかする」
 茂吉は少し大きな声で六郎を制した。弥助はいきなり自分にまで聞こえてきた声にビクッとした。
 言葉だけを見ると茂吉は男らしいことを言ったように見えるが、実際茂吉は六郎に馬鹿にされた気分になり憤っていた。そしてややこしいことになってしまい面倒くさくなっていた。適当にあしらおうと決めて茂吉は弥助の所まで戻った。
「あー。……織田信長の骨だという証拠はあるか?」
「はい、あります。これです」
 弥助は茂吉に奇形な腕輪を差し出した。金属で出来ているようで、角が所々出ていてそれぞれ交差しているのと、所々に綺麗な石が埋め込まれていた。全体的には綺麗というより気持ち悪い形だったが、茂吉には格好よく見えた。
「うわぁ……(あるのかよ)」
 正直骨だけならば難癖をつければ追い返すこともできた。しかしなんとなく『それっぽい』物を目の前に出された。茂吉から見る弥助は、不安そうな、でもどこか自信のある顔だった。もちろん弥助にとっては、腕輪は織田信長の物で間違いがない自信がある。というか、自分で見た事実なので当たり前のことだった。
 茂吉は本当に面倒くさくなった。出来ることなら目の前の少年を敵方の間者として持っている槍で一突きにし、全てを無かったことにしたかった。しかし、さすがに子供を殺してしまうのは気が引ける。六郎は手伝ってくれないだろうし、相手もむざむざ殺されるはずはないので大変だろう。死体の処理もしなければならないし、報告もしなければならないし、間者と判断した理由の説明もしなければならない。あれ? 面倒ごとが増えたな。と茂吉は思った。なんとか穏便にこの町民の子供を追い返し、ついでに少し欲しくなってきた腕輪を手に入れる算段を考えた。考えに考えた。六郎と弥助はうわぁと言ったまま人形のように動かなくなった茂吉を不思議そうな目で見ていた。
 腕輪を見ながらよだれがあふれ出そうになるまで口を開け、見開いた目を盛んに瞬かせながら、今までの人生で一番頭を回転させたであろう茂吉は、やがてその開いた表情のまま弥助を見て言った。
「織田信長の骨なんだが……もう見つかったのだ」
「えっ?」
「だから、もう『見つかった』のだ。骨は必要ない」
「あ……」
 弥助は『骨』になる前までのことしか知らない。だから、例え織田信長の骨を見つけた他の者が、骨の一部をすでに持ち出していたとしてもおかしくはない。弥助が見つけた織田信長の骨は少なかった。それは日が経った結果骨が土に帰ったものだと思っていた。
「その……」
「だが、その腕輪は信長様の物かも知れぬ。こちらに渡してみよ」
「は、はい!」
 弥助は慌てて持っていた腕輪を差し出した。ほとんど反射的だった。自分の持っている骨がもう使えないと言われ、頭が真っ白になってしまい言われたことをこなすだけの木偶人形になっていた。
「……なるほど。確かに受け取った。これは報酬だ。本来出ないが、お前の親切心に出そうと思う。お手を出されよ」
「はい!」
 茂吉は自分の懐から何かを取り出すと、弥助の手に大事そうに置いた。弥助の手には、丸い形をした何かが乗っていた。
「……これは?」
「あ、知らなかったか。それは銀貨だ。もの凄く価値のある物だぞ」
「……」
「……」
 茂吉が考え出した現時点で最善の策は『全てが終わったことにする』だった。終わってしまったのだからこれ以上は何もない。我ながら自慢したくなるほどの策だと思った。『骨』に関する事はこれで問題ないだろう。普段使わないほど頭を使ったので、頭痛がしていた。そして、動悸が止まらなかった。動悸の原因は、腕輪を欲した事による物だった。子供相手とは言え、いくらなんでもあの織田信長の腕輪なのに報酬が銀貨一枚だけじゃ割に合わないんじゃないか? と思っていた。その部分が一番の心配どころだった。だが、今回に関してだけは相手が良かった。
「……ありがとう、ございます」
 町民なら子供とは言え価値がわかったかも知れない。しかし、弥助は貨幣とはほとんど無縁の生活をする農民だった。ものすごく価値があると言われればその言葉を信じるしかない。弥助が想像していた、自分では持ちきれないほどのお礼からはだいぶ小さくなった手のひらの銀貨は、弥助の懐におさまった。
「これからもお国のために励んでくれ。ではな」
 国を持ち出すなど訳のわからないことを言って茂吉は弥助に帰宅を促した。弥助は、釈然としないまま、呆然としたまま門を去った。その後ろ姿は、門に来た時とは似ても似つかない、たどたどしい足どりだった。
「ああよかったよかった。俺凄いな頭良いな」
「……なあ、本当に良かったのか?」
「え? いいだろ? 何か問題でもあるのか」
「いや、なんというか……可哀想な気がして」
「しょうがないだろ。だいたい本当だったとしてなんで子供一人で来るんだよ。信用できねぇ」
「確かにそうだな」
「だろ。悪戯だよ。それにしても、子供が人骨持って歩くなんてなんだか怖いな」
「親の骨だったりするかもな」
「なんだよそれますます怖い。桑原桑原。もう来るなよー」
「その腕輪はどうするんだ?」
「そうだなぁ。身につけても目立つだけだから、そのうち売り払ってなにか良い物買うわ」
「そうか。それにしてもなぜ銀貨など持っていた?」
「ああ、この前恩を売った奴にもらったんだよ」
「恩?」
「一人女を紹介してやったんだ。夜伽用のな。身分が高い奴も大変だな」
「お前、どんな奴と知り合いなんだ?」
「教えねぇよ。あくまでも知り合いの一人だ」
「……」
 二人はまた元の姿勢に戻り、退屈な門の守護へと戻った。ほぼ無人の門の周囲は、六郎にはなぜか弥助が来る前より静けさを増しているように感じられた。

 弥助は戻る途中振り返りまた城を見つめた。まだ日は高く、城の瓦が光を反射して光り、より壮大さを増している。
 しかし弥助には、あれほど大きかった城が今はやけに小さく見えた。


 城下町は未だ賑わっている。
 人の声は降り止まない雨のように聞こえ、足音は鳴り止まない地震のように感じた。
 紅葉のように彩られた城下町だが、弥助は地面の土と手のひらに乗る銀色の丸い物ばかりを見て歩いていた。
 目論見と言うにはあまりに純粋な弥助の計画は完全に失敗した。
 手のひらに乗っている物では、これから先両親を幸せにし続けるには、どう考えても不出来で、不適当だった。そもそも使い道がわからなかった。
 懐には、歯と骨が入っている。小さな鍛冶屋の歯と、人の上に君臨した覇者の骨。そのどちらにも強烈で濃厚な『生』が詰まっていて、どんな金属より価値があるように思えた。
「あ……」
 ふと弥助は思い出した。着物を返さなければならない。そして、虎兵衛のことも思い出していた。
 虎兵衛は、最後まで自分の思っていることを口に出すことはなかった。弥助には、それが少し不思議に思えた。
 例えば……親切にしてもらった時にお礼をするとか、好きな物を〝好き〟と言うこととか、弥助は当たり前にやっているつもりだった。だから、それをしない虎兵衛……いや、虎兵衛だけでなく、今まで見ていた骨達含めて、弥助には不思議だった。
 弥助がそう思ったのは、弥助がまだ幼く、他者より素直な性格であるためだった。弥助は、人に向かってひたすら真っ直ぐだった。

 今、弥助には、虎兵衛の思いを伝えることが出来そうな、一つの方法を持っていた。
 だが、これをしたら鹿之助がどう思うだろうか。鹿之助が今やっていること――鍛冶の仕事に迷いを与えてしまう。それはだめな気がする。でも、自分がこれをしないと、虎兵衛の想いは一生伝わらない。自分だけがそれを出来る。自分だけが。他の人には絶対に出来ないことだと思っている。
 気持ちを黙し続けた不器用なこの人間のことを想う。お節介かも知れない。ありがた迷惑かもしれない。でも、言葉にしないと届かない。
 〝責任は親達がとる〟
 才蔵の声が聞こえた気がした。
 父ちゃん。これは……知っても良いことだよね。
 家族なんだから。
 きっと、受け止めてくれるよね――。



 弥助は、辺りを見回した。自分の考えていることを出来そうな人を探すために。
 少し先の方に、座りながら何かをしている老人を見つけた。
 老人は、農民の姿をした弥助より汚かった。それなのに、老人の目の前にある四角い形をした物は、やたらと白かった。横に汚い物があるためか、その白さは際立っていた。
「なんじゃあ? お前?」
 弥助が近づくと老人は弥助をのぞき込むように見ながら言った。どこか蔑むような視線でもあった。その視線は普段老人が町民から受けている視線でもあった。
「あ、あの……」
 先ほどと同じくどこか不安そうな口調で弥助は老人に話しかけた。
「そこにいては前が見えん。退け」
 弥助は慌てて老人の前から横へ移動した。老人は弥助のことを気にする素振りもなく、また四角い物に向かって何かをし始めた。
 弥助は老人の邪魔をしないようさらに近づいた。老人はその身なりとは裏腹に姿勢は良く、堂々としている印象だった。体の大きさは特に他人と変わる物ではなかったが、なんとなく体つきは精悍に感じた。
「……」
 弥助は黙って老人がしていることを見ていた。老人の目の前にあった四角い物は、切り取った木の板に白い布を綺麗に張った物だった。布には二人の目の前にある宿屋が墨で描かれていた。
 弥助も土や木の板の表面を削ったりして絵を描いたことはある。だが、所詮どれもこれも子供が描ける程度の物だ。大人が描いた子供からするといわゆる『うまい絵』は今まで見たことはなかった。だから、例え老人が描いている絵が他の名画と言われるものから技術的に遙かに劣っていたとしても、弥助には感動して口が開いたままになるぐらいの物だった。
「……ふぅ」
 老人は一息つくと筆を置き、描いた絵を少し自分から遠ざけて確認した。そこで弥助は我に返り、おずおずと老人に話しかけた。
「あの……うまいね。おじいちゃん」
「これが巧いなど片腹が痛いわ」
「でも、本当にうまいよ」
「なんじゃ? お前? わしをからかいに来たのか? 恥をかかせる奴は童と言えど許さん」
「ち、ちがうよ!? 本当、本当に……」
「――褒めても食い物もなんも出ぬぞ」
「大丈夫、本当に」
「……」
 話している間もしきりに絵の方に顔を向ける弥助を見て、老人は弥助から出た言葉が真実であると認めた。
「何用じゃ?」
「あ、あの、その……お願いがあって」
「お願い?」
「うん。……手紙を、書いて欲しいんだ」
「…………」
 老人はじぃっと弥助を見据えた。老齢とは言え濁った目から発せられる視線の凄みは、弥助を怯ませるには充分だった。
「わしが何をかいているか、お前はわかるか?」
「目の前の、宿屋」
「そうだ、これは絵だ。文字ではない。お前、それをわかっているか?」
「うん、……その、ごめんなさい」
「わかっているのなら、どうしてわしに声を掛けた? 他にも頼めそうな奴等は周りにごまんと居る。わざわざ薄汚いじじいに声を掛ける必要もあるまい」
「……なんとなく」
 弥助はそう答えるしかなかった。老人に声を掛けた理由は弥助にはよくわからなかった。
 ――実際には、弥助は老人の格好を見て無意識に近づいていった。周りを歩いている人々よりも老人の方が自分に『近い』と感じていた。今の弥助の格好はむしろ周りを歩く人々と同じだが、弥助は頭の中では『自分とは違う人達』と思っていた。
「まあいい。――どうやらお前は運が良いようだ。書いてやろう」
「あ、ありがとう」
「しかしまさか、人に物を頼むのに只と言うわけではあるまいな?」
「……」
 老人は弥助に意地悪をした。普段、老人は道行く人々に笑われながら見られることはあっても、話しかけられる事は皆無だった。だが、今は話しかけられた上、頼まれごとまでされている。孤独に暮らす老人には、他者との会話という触れ合いがうれしかった。
「これを……」
 弥助がおずおずと出したのは、門番の兵士からもらった一枚の銀貨だった。
「これは、まさか」
 老人はひったくるように弥助から銀貨をつかみ取った。いきなり勢いよくなった動作に弥助は多少驚いた。老人は銀貨をまじまじと見つめた後、今度は弥助の顔を同じようにまじまじと見つめた。弥助はどこか気恥ずかしくなった。
 老人は弥助から渡された銀貨の価値がわかっていた。そして、町民の子供が持つような物ではないことも知っていた。銀貨や金貨は大名同士の外交に使われる事はあったが、一般にはまだまだ貨幣として浸透してなかった。粗悪な貨幣の流入による取引上の問題が多かったためだった。庶民は、より確実な方法である物々交換を選択していた。
「お前、これをどこで……。いや、それより、本当にこれと引き替えで良いのか?」
「うん」
「そ、そうか」
 老人は意地悪をしたつもりだったが、思わぬ事になってしまい少しうろたえた。しかしそれよりも、子供にとっては宝物にして良いぐらいの価値のある物を簡単に渡されたことに重要な意味を持つことを老人は理解した。銀貨は今の弥助には価値のわからない、あまり意味のない物だったが、一子供の願いに重要性と真剣さを持たせるには充分だった。その意味で弥助はまた運が良かった。
「わかった。それならもう断る理由はない。この腕を奮おう」
「ありがとう、おじいちゃん」
「なら、その手紙の内容を言ってみろ」
 老人が促すと弥助は手紙の内容を地面に書き始めた。虎兵衛が一度書いて破り捨てた手紙。弥助は文字があまり読み書きできない。だから、骨を持ち、虎兵衛の手紙を見ると同じ形を地面にそのまま書き、老人に写させた。だいぶ時間が掛かったが、どうにか全ての文字を白布に書き終わった。
「おじいちゃん。字の方がうまいね……あ、ごめんなさいっ!」
「いや、良い。それは当然のことだからな」
「なんか、絵みたいに綺麗だね」
「――」
 手紙に書かれた文字は大小、線の強弱、形、全てにバランスがとれていた。字の読めない弥助でも、地面に書いた自分の字より老人の字の方が綺麗だと言うことはよくわかった。統一された文字はそれだけで絵のようだった。
「――わしは、とある場所で右筆をしていた」
「ゆうひつ?」
「偉い誰かの代わりに手紙や文字を書く仕事だ」
「じゃあ、なんで今は絵をかいているの?」
「勤め先の家が戦でなくなってしまってな。それだけならまた新しい勤め先を探せばいいのだが、なんとなく、全然違うことをやってみたくなってな」
「そうなんだ」
「だが、お前に言われてわかった。全然違うことを何年もやったもりだったが、実際絵も文字も元はあまり変わらないのかも知れないな」
「……」
「わしは、お前にもらった銀貨で和紙を買って、それで誰かに文字を教えるよ。和紙は高いからな。それに書けば、物珍しさで人が集まるだろう」
「よくわからないけど、おじいちゃんの書いた文字は、もっと見たいな」
「そうか。まあ絵の方も、多少自信はあったんだがなぁ」
「ごめんなさい」
「いや、いい。その手紙、持ってってやれ」
「うん、じゃあね。おじいちゃん」
「ああ、また来いよ」
 弥助は老人に手を振ると、鍛冶屋の方に走った。着物を貸してもらってからだいぶ時間が経ってしまった。それに手紙を早く渡したいと弥助の気持ちは鍛冶屋の方を向いていた。
「……よく考えたら、字を褒められたのは初めてかも知れないな」
 手の中の銀貨を握りしめながら、老いた右筆は笑ったがすぐに真顔になった。
「しかし、なぜあのような内容なのか全くわからぬ。……あの子供は、わしが思うよりずっと重い何かを持っているかもしれぬ。……達者でな」

 ◇

「いらっしゃ……あ、弥助ちゃん!」
 弥助が鍛冶屋に戻るとつばきが慌ただしく向かってきた。手には食器の入った木箱を持っている。
「着物、返しに来たよ」
「うん、ありがと! 着物も私も喜んでいるわ!」
「何してるの? 掃除?」
「えーとね。……残念なんだけど、引っ越すことにしたの」
「え!?」
「弥助ちゃんとはもう会えないかも。いつか私を迎えに……いや、私が迎えに行くから!」
「なんで……」
 弥助は懐にある白布に書かれた手紙を握りしめた。
「――ちょっと色々あってね。もうここで鍛冶屋をやるのはやめたの」
「そう、なんだ」
 弥助は、手紙を書いてもらった老人に手紙を読み聞かせてもらった。そのため、手紙の内容を知っていた。やめるのなら、この手紙を渡すのは何も問題ない。弥助は、そう思い少し安心した。


「あの、これ、鹿之助さんに渡して」
「お父さんに? なに?」
 弥助は着替え、畳んだ着物と一緒に白布をつばきに渡した。白布は綺麗に折りたたまれ、着物の上に乗っている。
「布?」
「じゃあ、帰るね」
「えっ、もう帰っちゃうの!? もし良かったらなにか食べていってよ! ぶぶ漬けだけはお願いされても出さないけど!」
「忙しそうだし。それに、父ちゃんが待ってるから」
「――――」
「ごめんね?」 「う、い、いや、いいのよ! ……そうね、父ちゃんは大事だもんね。弥助ちゃんは、父ちゃん好き?」
「うん、大好き」
「わたし……いや、なんでもないわ。そっか、帰っちゃうのか。短い間だったけど、また縁があったら会おうね」
「うん、着物を貸してくれて本当にありがとう! つばきお姉ちゃん」
「――今度来たら好きなだけ持って行くと良いわ」
「? じゃあ、またね」
「うん、じゃあね」
 鍛冶屋から出て行く弥助を見送ると、つばきは弥助から渡された白布を広げてみた。白布には非常に綺麗な文字が書かれている。
「なんで、おじいちゃんの名前が……」
 つばきは外を見渡した。しかし、弥助の姿は大勢の町民に隠れてもう見えることはなかった。
「あの子、一体……」
「つばき、どうしたの? まさか、与一郎君?」
「あの馬鹿はもう来ないわよ、お母さん。着物を貸した弥助ちゃんよ」
「そう。その弥助ちゃんが来た時は忙しくて顔を見られなかったけど、どんな子?」
「とっても美男子よ! 磨けば間違いなくどんな刀より光るわ。それにすごく素直で……不思議だった」
「不思議?」
「うん。お母さん。これを見て。私には全部読めないから意味がわかりにくいけど、お母さんはわかるよね?」
 つばきはあやめに白布を手渡した。文字を読むあやめの顔は真剣だったがつばきにはどこか不安げに見えた。それをみてつばきは内心はらはらしながら見つめていた。先ほどのようになってしまうのは怖いためでもあった。
 読み終わったのかあやめは白布を文字が見えないように折りたたんだ。
「これ、弥助ちゃんが渡してきたのね?」
「う、うん!」
 あやめの目は潤んでいた。それを見てつばきは慌てたように返事をした。
「そう。……たしかに、不思議な子ね。これ、お父さんに見せましょう」
「お、お母さん!?」
「ん? なに?」
「それ、また破ったりしないよね?」
「ふふ、大丈夫よ。お母さんの力じゃ布なんて破れないわよ」
「――――。(破れたら破るの?)」

 ■■■

「……」
 鹿之助は、頭が真っ白になっていた。
 妻に自分が作った刀を『なまくら』と酷評され、刀を捨てろ、と自分の仕事を否定され、おまけに知らない子供に、仕事に対する理念を遠回しに諭されてしまった。
 ――今まで、自分の作った刀を直接評価してくれる人は居なかった。自分に刀のいろはを教えた父親でさえ、一言も言わなかった。
 自分の刀が売れない事は知っていた。
 しかし、それを評価として鹿之助の心に残すにはあまりに浅く、薄かった。
 だから結局、評価は自分がした。
 父親の刀は一番近くでずっと見てきた。目に焼き付けてきた。こと父の刀に対する目利きだけは自信があった。
 そして、その目に間違いはなかった。
 しかし、刀に対する目が間違いなさ過ぎて……自分が間違っていることに気づかなかった。
 ――いや、気づいていた。
 刀を作れば作るほど、これは間違いなく自分が作った刀なのだとわからされた。気持ちを込めない刀の出来映えも、父親の刀を見続けた鹿之助にはわかっていた。実際虎兵衛が作った刀は、昔より――あの、鋭敏で誰にも心を開かなかった頃より、死に際に作った物の方が良かった。父の技術は昔から変わっていない。ただ、性格が穏やかになった晩年の方が、少なくとも鹿之助の目にはよりよい物に見えた。昔との違いを考えるなら、『心』。それに気づくのは容易だった。
 それでも、気づかないようにしていた。わからないような振りをしていた。
 全ては、父親と同じ刀を作るためだった。
 大好きな、『刀』を、作るためだった――。


「……」
 あやめは、ずっとわかっていた。
 何度も夫へ言おうと思った。
 だが、言わなかった。
 言えなかった。
 刀が媒介した二人の世界の中では、実の妻でさえ異物だと感じさせられていた。
 しかし、きっかけは突然その手に渡された。
 与一郎とつばきが見つけ出した虎兵衛が書いた和紙。
 そしてあやめが考えたのは、その和紙を鹿之助に渡すことなく、目の前で破ることだった。
 あやめは覚悟をしていた。
 和紙を破り抜くことは、彼ら親子の縁を一つ切ってしまうことだ。そこまでしても鹿之助は気づいてくれるかどうかわからない。それどころか、最悪夫婦の縁を切られてしまうかも知れない。
 だがそれでも、大好きな父親への気持ちで苦しむ夫を助けたかった。
 あやめは懐にある和鋏に願った。こんな素晴らしい物を作れる夫なら、きっと話を聞いてくれる。そして、きっと気づいてくれると。夫婦二人の絆である和鋏に最後の勇気をもらい、鹿之助が居る工房へと向かった。


「俺が、俺が今まで作った刀は……」
 自分のことだけを考えた、自分のための刀だった。
 鹿之助は、そうつぶやいた。
「悲しさの、寂しさの言い訳を、俺は刀に打ち込んでいた。心がぼろぼろなら、刀もそうなる」
「……」
「全部、俺のせいだ」
 膝を突き、拳を握りしめ、鹿之助は気持ちを口にした。
 ずっと想っていた。ずっとわかっていたことだった。
「持つ人を、想う刀。持つ人の、未来を作る刀」
 長い年月の間、父に寄り添ってきた鹿之助の体。
 父が、手紙が無くとも。
 技はその腕に。
 心は胸に。
 全て、刻み込まれていた。
「俺に、そんな刀が……」
「……できるわ。あなたなら」
 あやめは手のひらに乗せた和鋏を鹿之助の前に出した。
「これを作った、あなたなら」
 込めた想いは物に宿る。
 黒く錆びた中に白く輝く刃先の光は、鹿之助には希望の光に見えた。
 刀作りは父親との絆。やめることは出来ない。
 でもこのままじゃ売れない。妻と娘は自分を心配している。
 下には砂にまみれた汚い手。父によく似ている手。
 目の前には最愛の妻と、娘。
 どちらも、どちらもかけがえのない大切な物だった。
 鹿之助にとっての刀は、過去の絆を連鎖し、未来を作り、守るもの。
 家族のため、刀を持つ誰かのため、過去も未来も刀も捨てられない鹿之助は、
「やり直したい」
 と一言言った。


 その後鹿之助の決断は異様なほど早かった。
 自分から口にしたことで、決意と責任が固まったためだった。しかし、鹿之助が提案した内容に二人は驚いた。
「ここじゃなく、別の土地で、新しい土地で刀を作りたい」
 生まれ育った土地を離れる必要はない。刀を作るために一番重要な道具である鹿之助が心変わりして作れば問題ない。しかしそれでも鹿之助は譲らなかった。
 むしろ鹿之助にとってはこの場所を離れることが、父親から離れることが重要だと思っていた。父親との連鎖した絆を少しだけ解き、親元から離れる事でやっと自分自身を見つめられると考えた。
 結果、つばきのことも考え最終的にはあやめが育った場所へ引っ越すことになった。虎兵衛の子として名前が多少知られている鹿之助でも、向こうでは全くの無名。新たに事を始めるのに文句はなかった。
「つばき、ごめん。友達もいっぱい居るのに」
「今更あやまっても意味ないよ」
「ごめん。これが最後のわがままだから、許してくれ」
「次はないからね! お母さんと一緒に出て行っちゃうんだから」
「絶対、そんなことさせない」
 住み慣れた土地を離れるのは寂しいはずが、つばきは逆に笑っていた。
 鹿之助が優しいのは知っている。二人が出て行くなどあり得ないことは確信している。
 それになにより、目の前にいる父親が、凄く格好良く見えた。
 普段の優しい顔と、仕事時の神経質でこわばった顔しか知らないつばきは、初めて仕事人としての父の顔を見た気がした。それが、たまらなく格好良く、誇らしく見えた。
「私、台所片付けるね!」
 つばきは元気よく台所へ歩いた。嫌いだったはずの工房が、少し名残惜しく見えた。

 ■■■

 弥助から手紙を受け取った二人は、鹿之助が片付けをしている工房へ向かった。
 鹿之助は工房の中で、神棚に手を合わせていた。まるで、工房と虎兵衛に別れを告げているようでもあった。
「お父さん」
「ん?」
 つばきが呼ぶと、鹿之助は手を下ろし振り返った。顔は、二人もよく知る柔和な笑みだった。つばきは鹿之助の笑顔を見て自分も笑顔を返したが、内心では少し驚いていた。それは鹿之助の笑顔にではなく、その笑顔を見せた場所にだった。六年前に虎兵衛が死んでから、鹿之助は工房で笑わなくなった。いつでも眉間にしわを寄せていた顔つきがほころんでいた。
「お父さんに、手紙が届いてるの」
「俺に? 誰から?」
「あなたの、お義父様からよ」
「俺の、父さん?」
 折りたたまれた白布を渡されても、鹿之助はぽかんとしたままだった。死者から手紙が届くはずがない。しかし真剣な表情の二人を見て、まずは渡された白布を広げてみた。
 白布には、見る人がみとれるような字で、次のように書いてあった。



『鹿之助。俺はお前に刀鍛冶をしてもらいたくない。お前は優しいから人を殺す道具を作るのには向かない。それに、俺のようにはなって欲しくないからな。だから、妻方の方に引っ越してそのまま呉服屋でも継いでくれ。その方が幸せになれる。


 言いたいことが一つある。
 よく育ってくれた。
 母が居なくて辛くて寂しかっただろうに、よくそれを乗り越えて大きくなってくれた。
 お前が居たから俺は最後まで生きることが出来た。
 誇らしい息子になってくれて有難う。
 もう十分かも知れないが、少なくとも俺よりは幸せになってくれよ。
 それじゃあ、あの世で先にまってる。

 虎』



「…………」
 工房はしばらく沈黙したままだった。やがて鹿之助は目をつぶりながら白布を折りたたんだ。
「あなた、その字は……」
「ああ、父さんの字じゃない」
「……」
「でも」
 鹿之助は目を開けて一度折りたたんだ白布を広げ、あやめとつばきに見せた。
「この虎の字を丸で囲っているし、その横には十字の印もある。それに……」
 鹿之助は神棚の方を振り返り、
「〝呉服屋は継がなくて良いのか?〟とは何回か聞かれたことがあるんだ」
 と、神棚に語りかけるように言った。
「あの言葉は遠回しに、『お前には向いてない』って言いたかったんだね」
 それきり、鹿之助はまた沈黙した。
 あやめとつばきには何も言えなかった。
 鹿之助にとって虎兵衛は自分を形作ったかけがえのない物だ。強制されてこそいないが、父の言うことは絶対。二人はそう思っていた。そして、あやめと同じように虎兵衛は〝刀を捨てて呉服屋を継げ〟と言う。あやめは今更になって自分の言ったこと、この手紙を見せたことを後悔していた。つばきは手紙に書かれていてた『呉服屋』という単語が今度は父親から出たことで不安になった。


 時間が止まったかのように静かになった工房の中。鹿之助は持っていた白布をいきなりばさりと振ると、丁寧に折りたたみ、神棚に乗せた。
「でも、俺は決めたんだ」
 鹿之助が出した結論は、あやめやつばきが思っていたのとは違った。
「やり直すって決めたんだ。出来るってわかってるんだ」
 鹿之助はあやめを見る。
 一番近くにいた人が、自分を、自分の作る物を一番正しく見てくれていた。このまま迷い続け奈落へ沈んでしまう自分の背中を引き上げてくれた。
 鹿之助はつばきを見る。
 つばきは未来で、光だ。その未来を守るために、自分がある。未来が行く先を明るくしてくれるから、これから迷えずに進んでいける。
「確かに刀は人を殺す道具だ。でも、人が刀を持って戦う時代はもうすぐ終わる。それは父さんの作った刀のおかげでもある。父さんの刀が未来を切り開いてきたんだ。だから俺はこの未来を繋ぐ、未来を次代に繋ぐ刀を作る」
 はっきりと、鹿之助は父親の言葉を拒絶した。
 否定されたことで逆に反発し、意志は固くなった。そこには『虎兵衛の子』はもう居なかった。
「手紙を読ませてくれてありがとう」
 手紙を自分に渡すのには勇気が必要だったことはわかる。これを見せられたら、気持ちがまた揺らぐことはわかっている。それでも、これを見せてくれた。
 ここまでされて引き下がれなかった。
 ここまで信じてくれて、進まないわけにはいかなかった。
「片付け、また始めないとな。ここもあんまり掃除してなかったから、大変だ」
「お父さんっ」
 つばきは鹿之助に抱きついた。鹿之助は驚いたが、やがてつばきの頭をゆっくりと撫で、ぽんぽんと叩いた。
「大丈夫。もう大丈夫」
 胸元を涙で湿らすつばきを抱きしめ、鹿之助はこれから自分が作る未来を想った。


 工具をある程度片付けると、工房は倍ぐらい広く見えた。
 一組の父子が密度の濃い時間を過ごした場所は、徐々に人がそこにいた形跡を無くしていった。もともと物は多くない。工房だけでなく家全体を引き払う準備をするのにそう時間は掛からない。
 鹿之助、あやめ、つばきは並んで神棚に手を合わせた。住み慣れた土地を離れる寂しさも、新しい土地での生活の不安も、それ以上の期待で上塗りされていた。鹿之助はあやめ、つばきを守るために新天地でも全力で仕事に打ち込める。あやめ、つばきは変わりつつある鹿之助を見て、この頼もしさがあればどこででも生活できると安心していた。
 大人二人分ぐらいの幅がある神棚の上には、折りたたまれた白布と、遺作の刀が乗っていた。明日にはこの神棚も撤去される。
「そういえば、あの手紙は農民の子供が持ってきてくれたんだって?」
「そうよ、お父さん」
「彼は一体、何者だったんだろう。なぜ、あの手紙を」
「鶴か何かの恩返しかもね。着物を貸してあげたし」
「天国から来た飛脚かもしれないわね」
「それいいね、お母さん!」
「あるいは本当にそうかもしれないな。でもそれなら父さんが書くはずだし。その子が他の人に書かせたのだとしたら、まるで父さんの全てを見てきたかのような口ぶりの手紙だった。どちらにしても人間の業とは思えない」
「でも見た感じは私達と何も変わらなかったわよ? もし本当にただの子供だったら」
「そうだな、人のままそんなことが出来るのだとしたら…………だんだん生きるのが辛くなるかも知れない」
「辛くなっちゃうの?」
「これから成長するにつれ、知識が増えるにつれ、だんだん『その人達』の存在が自分の中で大きくなってくる。一人の人を全て知るっていうのは大変なんだ。一人だって一杯一杯の人も居るのに、そんな大人数が自分の中で大きくなったら――いつか、苦しくて耐えられなくなるかもしれない。自分だけでちょうど良い大きさの部屋の中に、たくさんの人が入ってきたらきっと息苦しいだろ? それでもそのままずっと大きくなっていったら……」
「……」
「人には知って良いこともあるけど、知らなくて良いことも山ほどあるんだ」
「じゃああの子は……」
「でも、きっと大丈夫だ」
「え?」
「つばきが着物を貸した恩をあの手紙で返してくれるような人ならそれだけで悪くは思えない。それに、あの手紙を俺に渡すのは悩んだと思う」
「そうなの?」
「まず、これが虎兵衛の手紙として受け取ってもらえるかわからない。字が違うんだ。そして家族からの手紙とはいえ、〝今やってることをやめろ〟なんて言われたくないだろう? ましてや本人でなく赤の他人が代わりにそれを伝えるようなことをするなんて。そもそも父さんは死んでいるから確かめることも出来ない。彼は、わざわざこんな面倒事をしなくても良いんだよ」
「そっか。それでも、そこまで悩んでもこれを運んでくれたんだ」
「そう。あの手紙には、父さんの気持ちと一緒に、その子の気持ちも入っているんだ」
「もし今度会えたらうんとお礼しなきゃいけないわね」
「でも、それで何が大丈夫なの?」
「ああ。そこまで悩んでも俺たちのためにここまでしてくれた優しい子なら、きっとその子を助けてくれる人はいるはずだ。もし彼が他人の人生に押しつぶされて壊れそうになっても、彼と関係してる人達がきっと支えてくれる」
「あの子も……与一郎も、もしかしたら弥助ちゃんの友達かも」
「そうね、与一郎君ならきっと弥助ちゃんを助けてくれるわ」
「お母さんあいつの事ほんと大好きねぇ」
「彼の幸せも祈って、もう一回手を合わせようか」
「そうね」
「うん!」

 ◆

「父ちゃんごめんね、手伝えなくて」
「んあ? 別にいいさ、草鞋も全部売れたしな!」
 弥助と才蔵は村へと歩を進めていた。辺りは暗くなり始めていたが空は晴れていて、夜になっても満月が道を照らしてくれそうだった。
「どうだった? 城下町は」
「うん、楽しかったよ」
 楽しいと言いながらもその後何も喋らなくなった弥助を見て、才蔵は疑問に思った。
「どうした?」
「ごめんね、父ちゃん」
「今度はなんだ?」
「本当は、父ちゃん達が一生幸せに暮らせる事が出来たかもしれないけど、できなかった」
 才蔵は、一生幸せに暮らせるなんて子供ごときがちゃんちゃらおかしいこと言うなと笑い飛ばすつもりだったが、うつむいて今にも泣きそうに瞳を潤ませている弥助を見ると、頭をはたこうと思った手も途中で止めた。
「あのなぁ弥助」
 才蔵は手を弥助の頭に乗せた。
「父ちゃんたちはな、お前が元気で生きてくれれば良いんだ。お前が生きて笑ってくれるならこれ以上何も望まないよ。お金は草鞋を売れば稼げるけど、弥助はなにをどうがんばっても、逆立ちしても仏様に祈っても、一人しか居ないんだから」
「うん」
「子供は元気に生きてくれればそれで良い!」
「少し変でも?」
「少し変でも! ちゃんと受け止めてやる、親を舐めるなよ!」
「そっか……」
 わしわしと才蔵に頭を撫でられながら弥助は空を見上げた。もう一番星が輝いていた。
「父ちゃんあのね?」
「なんだまだあるのか! まさかそういうお年頃か?」
「秘密にしてたことがあるんだけど、聞いてくれる?」
 弥助は自分のことを両親に話そうと思った。
 自分のことをきっとちゃんと受け止めてくれるだろうと思った。まだ不安は残っていたが、才蔵の言葉と頭に乗せられた温もりが不安を溶かした。



 その三  完




 ◆
 ◆
 ◆



「なんとしても見つけるんじゃっ!」
 秀吉の怒号に大阪城は騒然としていた。
 最近、羽柴家支城の一つを守る門番が織田信長の遺品を持っていることが判明した。本能寺の変後発見されなかった遺体に関する情報が思わぬ所から手に入り、実際に遺品を持っていた子供と顔を合わせた門番の情報を頼りに、大規模な捜索が行われた。
 織田信長死亡の事実を手に入れ、正式に埋葬することは、秀吉にとって後継者として確固たる大義名分と地位を得ることに同義だったし、覇王の死亡を決定づけることで天下に時代の移り変わりを印象づける大きな力になるはずだった。
 しかし、ついに秀吉は信長の亡骸を見つけることは出来なかった。
 門番が弥助から腕輪を入手したのはもう数ヶ月前のことになっていた。そして、名前を名乗らなかった弥助の見た目の印象としては、綺麗な藍色の着物を来ていただけだったため、捜索は着物を着られる身分の町民に絞って行われた。着物を貸したつばき達は遠方の地へ越してしまい、もともと農民である弥助の身にはついに手が届かなかった。
 そして何より秀吉自身、もう大義名分を必要としなくなるほどの勢力を築き上げ、対抗勢力は力でねじ伏せることが出来るようになっていた。秀吉の統一事業を見届けるに連れ、民衆達も新たなる時代を実感していた。戦国の麒麟児、覇王はもう過去の人となっていた。

 ◆
 ◆
 ◆

「でさ、そいつ、俺と同じ所に黒子があったんだ。俺のばあちゃんも同じ所にあるし、何か他人の気がしなかったんだよなぁ」
「ふーん」
「やすちゃん、これからお花摘みに行こうと思うんだけど?」
「うん、いいよ」
「なんだよみや、俺も連れてけよ」
「お花が汚れるからダメ」
「なんだよー」
「みや、三人で行こうよ?」
「う……」
「いいよね? 二人より三人の方が喜んでくれるよ」
「うん」


 三人は供えた花の前で目をつぶり手を合わせた。
 みやの父が眠るその場所には、もうふきさらしの骨達はなかった。三人が協力してこつこつと土に埋めたためだった。みやは頻繁にこの場所を訪れていたが、こうしてたまに三人で来ることもあり、その時は綺麗な花や葉などを供えていた。
「うーん。でも今はこれがあるからいらなかったかも」
「そうだね、綺麗だね」
「綺麗? 花の綺麗さは俺にはまだわかんないな。腹もふくれないし」
「……与一郎も埋まればいいのに」
「え!?」
 木漏れ日に光りながら、桜の花びらがそこら中で舞い降りていた。地面は、上等な桃色の敷物のようになっていた。
「まあまあ、ちょうどお昼だし、帰ろうか」
「そうだな。弥助の母ちゃん怖いし」
「いつも怒られるようなことするからだよ」

 村からは炊飯の湯気があちこちで上がり、それと一緒に良い匂いもしていた。三人は午後も合うことを約束し、それぞれの家へ帰った。

「お帰り弥助、勘兵衛さんから手紙が届いてるわよ」
「ほんと? 父ちゃん、後で呼んで聞かせてね」
「わかった。でも弥助、そろそろ読み書き覚えないとな」
「うん」
「あんたははやく金勘定を覚えなさい。というか仕事してきなさい」
「すいません。でもお昼ご飯にまで言わないで……」
 楽しい一家団らんの笑い声は、外にも聞こえるほどだった。



 弥助は、まだ骨を拾っている。しかし、近頃は戦が起こらないのか、風化したのか、骨自体も減り、弥助自身が行く回数も減った。
 才蔵が草鞋を売りに行く間は、父に代わり農作業の手伝いをする。暖かくなり、実る季節へ向けての種を蒔く。
 緩やかに収束していく弥助の行為。それでも多分やめることはないだろうと思っている。その理由はなぜか弥助自身もわからなかった。拾った骨を通して悲しいことも知ったが、大切なことも知れた。
 自分の行為についてたまに考えることはあったが、しっかりとした答えは未だに見つからない。漠然とした思考はまだ少年の弥助にははっきりと言葉として自分の中に留めておくことが出来ない。
 それでも、今は家族や周りの幸せを願いながら生きていこうという気持ちだけは、紛れもなく本当の『言葉』だった。


 完

骨拾い